ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
ホーム > 組織でさがす > 企画調整課 > 第2章(戊辰戦争と会津藩士の入植)

第2章(戊辰戦争と会津藩士の入植)

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年12月1日更新
 第2章(戊辰戦争と会津藩士の入植)

福島県と北海道の交流のあゆみ

第2章(戊辰戦争と会津藩士の入植)

265年間にもおよぶ徳川幕府に終わりを告げ、新時代の契機となった戊辰戦争。江戸城開城後も会津藩は旧幕府軍の中心となり最後まで戦いぬいたが激戦の末、会津藩は廃藩となった。戊辰戦争が終ると新政府は蝦夷地の警護と開拓を行うために「開拓使」を設置、名称を「北海道」と改めた。藩が取り潰しになり東京で謹慎中の旧会津藩士の一部が北海道に移され、小樽・余市などの開拓に当たらされた。また、同時に会津松平藩の再興が認められ、旧南部藩内(盛岡)に領地を与えられ、斗南藩と称した。斗南藩は後に北海道に領地を与えられ、少数であったが旧会津藩士が北海道に移住した。 明治7年(1874年)、政府は北海道の本格的な開拓と北方警備を目的に屯田兵制度を創設、翌年から屯田兵の入植が始まると余市・斗南・会津などの各地から旧会津藩士が集結した。札幌郡(札幌市)の琴似・山鼻・江別などに移住し、訓練と開拓に従事した。こうして明治初期に北海道に移住した旧会津藩士の数は約400戸、1500人にものぼり、北海道開拓の重要な役割を果たした。

慶応 4年(1868) 1月、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が始まる。5月奥羽越列藩同盟成立。9月、会津藩は新政府軍に降伏し、廃藩となる。
明治 2年(1869) 5月、戊辰戦争の最後の戦いとなる函館戦争終結。会津藩遊撃隊を含む旧幕府軍は敗れ新政府軍の勝利。7月、新政府は蝦夷地に開拓使を設置、北海道と名前を改める。 9月~10月、東京で謹慎中だった旧会津藩士の一部(約200戸・700人)が北海道・小樽に移される。11月、旧藩主会津藩松平家の再興が認められ陸奥国旧南部領内に新たに3万石の領地を与えられ、斗南藩と称した。
明治 3年(1870)斗南藩に北海道の一部が分領され、瀬棚村(瀬棚町字本町)に5戸16人が入植する。
明治 4年(1871)明治2年に小樽に移住した移民団が余市郡に入植し、黒川・山田村を開拓。
明治 7年(1874)政府が屯田兵制度を創設。
明治 8年(1875)屯田兵の入植が始まる。旧会津藩士57名が札幌郡(札幌市)の琴似に移住、開拓と訓練に従事。
明治 9年(1876)旧会津藩士53名が札幌郡郡山鼻に入植。
明治17年(1884)福島県士族20戸が札幌郡江別に入植。

参考文献 「北に生きた会津武士と農民~福島県と北海道」 北海道開拓記念館 「北のまもりと開拓」 会津武家屋敷

 

前のページに戻る

第1章(会津藩士と北方警護)

次のページへ

第3章(民間の入植と開墾、そして現在)