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浜通り12(相馬市、南相馬市、双葉町):ロード・オブ・パシフィック(ハマナカアイヅ)

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年7月10日更新

 震災後5度目の夏がやってきました。ふくしまの被災地はどのような復興を遂げましたか?

 私は先日、その答えを探すべく、浜通りの太平洋沿岸地域に行ってきました。

1.      「奇跡の一本松」

 南相馬市の鹿島地区。

 津波の襲来で大きな被害を受けたこの地に、佇む「奇跡の一本松」があります。
かしまの一本松01 かしまの一本松02

 「平成23年3月11日の大津波に、

  耐えた松がある。

  大地に根っこを張りめぐらし、

  生き抜こうとしている。

  この松を地域のシンボルとしたい。」

                        ――南相馬かしま一本松を守る会

 補足しますと、震災直後に生き残った樹木は他にも何本かあったが、津波による塩害には敵いませんでした。その結果、残されたたった一本の樹木は、その生命力ゆえに「奇跡の一本松」とよばれるようになり、大きな復興のシンボルとなって、住民たちの心の支えにもなりました。復興と再生を成し遂げようとする南相馬市の決心にぴったりの「奇跡の一本松」は、間違いなく最適な材料と言えるでしょう。
周囲の様子01 周囲の様子02

 「信仰」はとても大切なものだと思います。「信仰」の対象は実に多種多様です。例えば一本の苗木、例えば一輪の小花、例えば一匹の名馬、例えば一羽の孔雀、例えば一振りの太刀、例えば一合の清酒、例えば一縷の青煙、例えば一陣の微風(そよかぜ)、例えば一筋の光明(ひかり)….どんな小さなものでも、信じきることで、私たちの心の溝を埋めてくれます。

 かく言う私ですが、実際に現地見た「奇跡の一本松」は、潤色されたご神木ではありませんでした。写真でもわかりますように、常緑樹の松の葉は茶色に変色してきており、どこか物哀しさが漂っていました。
茶色に変色した一本松

 元々、鎮魂と希望の象徴として、樹木医の診断を受けながら周囲の土壌を改良するなどして保護してきた。去年の暮れから、やはり塩害の影響で、根っこから水を吸い上げられなくなっているとみられ、危機的な状況が続きました。 枯死という最悪の事態も想定され、守る会はことし1月、一本松の「子孫」を残そうと、枝約20本と種約20粒を独立行政法人森林総合研究所材木育種センター(茨城県日立市)に託しました。既に同センターが接ぎ木と種まきをして苗木の育成に取り組んでいるとのことです。(河北新報より)

 波音が響く海岸で、「奇跡の一本松」は私たちに何を語ろうしているのでしょうか?

 ――答えは、相馬市の磯部海岸で作業中の工事現場にあるのかもしれません。

2.      「心はいつも太平洋だべ」

 太平洋沿岸の景色は、「あの日」を境に変わってきました。

 まずは下記の二枚の写真を見比べて頂きたいと思います。
新しい防潮堤 旧防潮堤

 「境目」はお分かり頂けましたでしょうか?

 大津波で大破された旧防潮堤(右図)を嵩上げして、新しく作った新防潮堤(左図)は、海岸保全の最前線になっています。

 それに加えて、海岸と陸側の間に地下水位より2.4m高いという高盛土で海岸防災林を造成しており、潮害、飛砂、風害などの災害防止機能や津波エネルギーの減衰効果を期待されています。
造成中の海岸防災林01 造成中の海岸防災林02

 土台に登れば、植えたての苗木たちが元気に成長している姿が確認できます。津波被害の軽減効果を高めるために、苗木の種類は十分な樹高があり、かつ、津波被害の軽減効果の高いクロマツ・アカマツを主林木に選定しています。

 さらに、苗木の保護を図るために、県産間伐材等を活用した防風柵を設置しています。地元の材料で地元の安全をしっかり守ろうという点においても、なかなか有意義だと思います。
防災林の苗木 防災林の防風柵

 福島県の太平洋側の景色は、高い防潮堤と若い海岸防災林によって再構築されています。まだまだ、「命の鉄壁」と呼ぶのには時間を掛かりそうですが、事業に携わる関係者や地元住民の方々の気持ちはひとつだと思います。

 ――「心はいつも太平洋だべ。」
心はいつも太平洋だべ

 ――「願わくば、今度は青藍の空と紺碧の海と、平穏無事に末永くお付きいできるといいですね。」
世代を超えるマツのバトンタッチ01 世代を超えるマツのバトンタッチ02

 これは、世代を超えた「奇跡の一本松」が若き海岸防災林の苗木に語ろうとしている言葉なのかもしれません。

3.      悲しみの一本道

 浜通りには2本の交通大動脈があります。

 今年の3月に全線開通した常磐自動車道と、昨年の9月に再開した国道6号線です。

 特に国道6号線は、東京電力福島第一原発事故よる「帰還困難区域」と指定しれた区間が3年半の間にわたって通行不能となっていました。
国道6号線の帰還困難区域区間 双葉町と浪江町は、ともに帰還困難区域

 これまで「帰還困難区域」内の自宅に一時帰宅に限って許可されており、帰宅に使用する自動車であれば決められた方法で通行できたが、避難区域の市町村の職員やインフラの復旧工事などに関わる業者など、事前の申請が認められれば、帰還困難区域内を通り抜けることができるようになりました。

 さらに、2013年6月からは、避難区域に当たる12市町村の住民でも、通勤・通院などの目的に限って、市町村発行の通行証を持参した上で帰還困難区域内の通行が可能になりました(昼間のみ)。

 その後、帰還困難区域内の通行区域内での除染や道路補修などが終了したとして、2014年9月15日からは、自動車に限り、全線での自由通行が可能になりました。ただし、帰還困難区域内での駐停車や側道への立ち入りは禁止されています。なお、歩行者やオートバイ・自転車については引き続き規制の対象とされています。

 通行再開した区域を走行してみると、道路や、電柱、田んぼ、建物…町の至るところに悲しみが滲んでいます。
かつて検問所だったところ 悲しき看板は至るところに

 双葉町のメインストリートに飾られた一枚の看板があります。

 「原子力 明るい未来の エネルギー」と大きく書かれています。
双葉町の看板

 看板は、第1原発に原子炉増設計画が持ち上がり、町が誘致機運を高めるため設置を決め、標語を公募したそうです。当時小学6年だった考案者の同作品が優秀賞に選ばれ、1988年に国道沿いに設置されたとのことです。

 皮肉にも、私の年齢とさほど変わらないこの看板は、今は国道6号線からフェンス越しに眺めることしかできなくなりました。

 最近、看板が老朽化を理由に撤去されることがニュースなどでわかりました。双葉町は撤去費用の410万円を新年度の予算に計上しましたが、看板の撤去には賛否両論、標語考案者は「負の遺産」を後世に伝えるため残すべきと主張しているとのことです。

 道は続く限り、人はどこまでも行けると思っていました。

 すぐそこに町があるのに、無情なフェンスが目の前に立ちはだかるという光景に触れた時、私は現実の無情と自分の無力さを思い知らされました。
現実の無常と自分の無力が重なると、私は通り過ぎるしかできなくなる 町の帰還は一日も早く

 この区間は、走行する車両の「重さ」のほか、犠牲者や故郷に離れざるを得ない避難者たちの「思い」を載せている「悲しみの一本道」だと思います。

 福島の被災地は、地震や津波によってダメージを受けた区域は、復興の建設が着実に行なわれいます。
 その一方、東京電力福島第一原子力発電所事故によって自治体ごと避難を強いられた自治体に関しては、傷跡は未だに剥きだしたままです。

 国道6号線の全線通行再開は、「悲しみの一本道」を世の中に知らせることになっているが、傷口を縫う「一本の針」という役割も担っていると思います。

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 沿岸部の「今」を見て、私は「復興」について安易にコメントすることができなくなりました。

 それでも、私はこれからも福島県で、自分が見て感じたことを伝えたいと思います。

 どうか、今後も引き続き福島県を応援してください。

 

(投稿者:徐)

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