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ディスカバー ふくしま in TOKYO

印刷用ページを表示する 掲載日:2024年2月1日更新

 東京にある福島県ゆかりのスポットを通じて、東京と福島のつながりを再発見して、皆様にご紹介していきます。
タイトルロゴ

 
No. 所在地 記事名
1 東京都
台東区
なぜ上野に? 野口英世像のナゾ
東京都
中央区
築地に幻の庭園? 白河藩主・松平定信が愛した浴恩園
東京都
世田谷区
M78星雲との交流がここにも? 祖師谷・砧のウルトラマン商店街
東京都
渋谷区
淡い思い出、濃い青春 幡ヶ谷にあった福島県学生寮
東京都
千代田区
東京の守り神に? 常盤橋に鎮座する赤銅色の赤べこ
東京都
中央区
銀座の冬の風物詩? オレンジ色に染まる紙パルプ会館

7

台東区 浅草寺に“日本のナイチンゲール” 福祉の母・瓜生岩子像
8   COMING SOON(取材中)

 

なぜ上野に? 野口英世像のナゾ

上野公園の銅像と聞くと、西郷隆盛を思い浮かべる方が多いですが、野口英世(福島県猪苗代町出身)の銅像も鎮座していることをご存じでしょうか?
野口英世といえば、ノーベル賞候補にもなった世界的な医学者として知られています。
国立科学博物館と大噴水の間の木立にそびえたつ野口英世像(全長4.5m)は、医学者らしく右手に試験管を持ち、思索にふけっているようにも見えます。

しかし、なぜ野口英世の銅像が上野公園にあるのでしょうか?

まず、福島県大玉村出身の玉応不三雄(たまお ふみお)氏に行き当たります。
玉応氏は、野口英世の偉業を後世に伝えようと、銅像を造立すべく昭和22年から募金活動を行いましたが、道半ばにして病に倒れてしまいました。

その後、日本医師会、北里研究所、野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和26年にこの地に完成しましたが、なぜ上野だったのかは明らかになりませんでした。
(他の候補地もあったが、許可が下りずに上野公園にたどり着いた、との説もあり)

上野公園の野口英世像のナゾはまだナゾのままですが、玉応不三雄氏の強い意志が結びついたことは間違いなさそうです。

<最後に>
野口英世は千円札の顔としても有名ですが、令和6年の新紙幣の発行に伴って、千円札から姿を消すことになります。
しかし、新たな千円札に登場するのが、野口英世の師である北里柴三郎というのも、また面白いところです。

関連URL
野口英世記念館(福島県猪苗代町)
https://www.noguchihideyo.or.jp/

上野公園にある銅像
野口英世博士銅像
石碑
銅像の説明文

築地に幻の庭園? 白河藩主・松平定信が愛した浴恩園

築地市場があった場所に、かつて広大な庭園があったことをご存じでしょうか。
それは、“寛政の改革”で知られる白河藩主・松平定信(※)が下屋敷の庭園として整備した「浴恩園」(よくおんえん)です。
※白河藩は、江戸時代に福島県白河市周辺を領有した藩。松平定信(宝暦8年(1759)~文政12年(1829))は第3代藩主。

浴恩園は、江戸湾から海水を引き入れた“春風”と“秋風”の池を巡る回遊式庭園で、花鳥風月を愛する定信らしい四季が感じられるものでした(画像をご覧ください)。
また定信は、詩歌を詠み、知人を招待するなど、浴恩園で隠居生活を謳歌したとされています。
(一説によると、隠居生活のために浴恩園をつくったとか…)                       しかし、文政12年(1829)3月に起きた大火によって、浴恩園のあった下屋敷は焼失してしまい、同5月には、定信も72歳で人生の幕を下ろしました。

明治時代に入ると、浴恩園跡地は海軍用地などに利用されるようになり、関東大震災の後には、壊滅状態となった日本橋の魚市場がこの用地に移転し、昭和10年(1935)に築地市場の開場に至ります。

築地市場は、水産物や青果物の供給を担い、長らく首都圏の食を支えてきました。
現在では、その機能を豊洲市場に移しましたが、今後、築地市場跡地がどのように変貌していくか楽しみです。
浴恩園から姿が変わっても、時代を超えて、定信の意志が引き継がれていくのかもしれません。

<最後に>
松平定信は生涯に浴恩園を含めて5つの庭園を作庭しましたが、現存しているものは、福島県白河市にある「南湖」のみです。湖畔にある“享楽亭”と呼ばれる茶室など、当時の様子を垣間見ることができます。

関連URL
白河市HP 国指定史跡・名勝「南湖公園」を歩こう!
https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page001742.html

浴恩園図
「江戸浴恩園全圖」(右に“春風”の池、左に“秋風”の池)
小沢圭 写,明治17 [1884]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9367513 (参照 2023-08-24)

築地市場跡
浴恩園のあった築地市場跡地

〈参考〉
 ・東京都埋蔵文化財センター調査報告 中央区都旧跡・浴恩園跡(2023・3)
 ・今橋 理子「江戸時代〈庭園画〉研究序説」学習院女子大学紀要(1999)

M78星雲との交流がここにも? 祖師谷・砧のウルトラマン商店街

平成25年(2013)、福島県須賀川市とウルトラマンの故郷「M78星雲 光の国」が姉妹都市提携を結び、現実の街と架空の街がリンクすることに驚きの声が上がりました。
これは、“特撮の神様”と称され、ウルトラマンの生みの親である円谷英二氏が須賀川市出身であったことが由縁でした。

しかし時を遡ること平成17年(2005)、いち早くM78星雲と交流を始めた街が東京の祖師谷・砧(そしがや・きぬた)にありました。名もそのままに「ウルトラマン商店街」です。
この商店街は、小田急線祖師ヶ谷大蔵駅の周辺にあり、祖師谷(駅北側)の「祖師谷昇進会商店街」と「祖師谷商店街」、砧(駅南側)の「祖師谷南商店街」の3つの商店街の総称となっています。
実は、祖師谷・砧は、かつて円谷プロダクションがあり、円谷英二氏が数多くの特撮作品を生み出していった場所なのです。
全国的な街づくり事業の機運に乗じて、世田谷区の職員による「世田谷売り込み隊」が音頭を取り、自治体・円谷プロ・3商店街が団結して、ウルトラマン商店街が誕生しました。

街には、駅前のウルトラマンシンボル像をはじめ、各所にウルトラヒーローや怪獣が顔をのぞかせます。
ゾフィー、ウルトラマン、ウルトラマンジャックが商店街のゲートで宙を飛び、ウルトラマンタロウ、ウルトラセブン、バルタン星人が街路灯に姿を変えて通行人を見守ります。
商店街の外れでは、カネゴンがベンチにひっそりと腰掛けています(カネゴンが商店街にあるのには深い意味がありそう…)。                         

子供の頃のヒーローは、いつまで経ってもヒーローのまま。
ウルトラマン商店街は子供の頃の感覚に巡り合える場所なのかもしれません。

<最後に>
祖師ヶ谷大蔵駅から新宿方面に向かうとき、電車が近づいてくると、懐かしいメロディーが駅のホームに流れてきました。曲名を思い浮かべるよりも先に、反射的にメロディーに歌詞を乗せていました。
“光の国から ぼくらのために 来たぞ われらのウルトラマン”                     

関連URL
ウルトラマン商店街公式HP
https://www.ultraman-shotengai.com/
すかがわ市M78光の町HP
https://m78-sukagawa.jp/

駅前ウルトラマン像
駅前のウルトラマンシンボル像

商店街入り口
商店街の一角。よく見ると、街路灯がウルトラマンタロウ

 淡い思い出、濃い青春 幡ヶ谷にあった福島県学生寮

「県人寮」という名前は、首都圏の大学に通っていた方には耳なじみがあるかもしれません。
その県の出身者に限り入寮できる学生寮のため、地方の高校を卒業して初めて上京する学生や保護者にとっては心強い存在です。

かつて渋谷区幡ヶ谷(はたがや)に福島県学生寮がありました。
幡ヶ谷は、今では閑静な住宅街と活気ある商店街がセットになった、新宿駅まで電車で10分圏内の人気エリアですが、学生寮が設置される前まで遡ると、すでに京王線が通っていたとはいえ、住む人が少なく、戦火で焼けた野原が広がっていました。
その景色が移ろいつつある昭和31年(1956)、在京の福島県人会をはじめ各界からの寄付を受けて、福島県学生寮が幡ヶ谷に建設されます。

その後、幡ヶ谷では手狭になってしまい、郊外の千葉県松戸市に移転する計画が立ち上がります。
その際、「女子寮の設置も必要」との声があり、幡ヶ谷の寮を女子寮として残すことになりました。
そして、新築の松戸の寮は、男子寮として昭和44年(1969)に完成します。

実は、本記事の筆者は昭和後期に女子寮に在寮していました。
当時を振り返ると、女子寮は23時が門限でした。
寮の周辺には暗がりも多く、夜遅くに勉強やアルバイトを終えて、おびえながら寮に駆け込む学生がいる一方、心配する男性に送ってもらう学生もいました。
近くには銭湯もあり、ここで銭湯デビューして、その面白さに目覚めるケースもありました。

また、寮の部屋は、福島育ちの学生にはかなり狭く感じられましたが、窓を開けていても虫が入ってこないことには驚きました。
上京して一人暮らしを始めた友人がホームシックで泣いているのを見たときには、同郷の仲間に囲まれた寮生活は、今思えば、あたたかで恵まれたものと感じました。

福島県学生寮は、震災と同じ平成23年(2011)に閉寮し、55年の歴史を閉じました。

寮の存在が無くなっても、卒寮生にとっては、そこにいた事実は変わらず、ふとした瞬間に、その濃密な青春時代がよみがえるのではないでしょうか。

<最後に>
現在、幡ヶ谷の女子寮は民間企業によって再生され、マンションとして運営されています。
松戸の男子寮は解体され、現在では松戸市の戸定が丘(とじょうがおか)歴史公園の一部となっています。

当時の女子寮
当時の幡ヶ谷の福島県学生寮(女子寮)

 東京の守り神に?常盤橋に鎮座する赤銅色の巨大赤べこ

この数年、会津の郷土玩具である「赤べこ」が空前のブームとなっています。
有名なタレントが赤べこのファンであることを公言したり、単純に可愛いからであったり、と理由はさまざまです。
中には、赤べこが厄除けのお守りでもあることから、「新型コロナウイルス感染症の収束祈願のため」というのもあったようです。

そして、皆さんご存じでしょうか。
東京駅近くの「TOKYO TORCH(トウキョウトーチ)」に、令和3年(2021)10月、巨大な赤べこが設置されました。
サイズは幅1.5m×長さ3.6m×高さ1.8m、重さは約180kgと、東京で一番大きい赤べこかもしれません。
また、よく見る赤色ではなく、淡い赤銅色(しゃくどういろ)のカラーリングが施されています。

TOKYO TORCHは、東京駅前常盤橋(ときわばし)に位置する再開発地区(約3ha)のことで、大手町、丸の内、八重洲、日本橋を結ぶエリアとなっています。
この地区には、すでに常盤橋タワーが竣工していますが、令和10年(2028)竣工予定のTORCH TOWER(トーチタワー)に注目が集まっています。
このビルは高さが385mと、日本一高いビルになるとともに、日本のビルで初めて東京タワー(333m)を超え、東京の新たなランドマークになることが期待されています。

またTOKYO TORCHは、「日本を明るく、元気にする」というビジョンのもと(TORCHは日本語で「たいまつ」=「灯り」)、日本の地域の魅力も発信しています。
この中で、復興支援をはじめ、前述の新型コロナウイルス感染症の収束の願い、そして福島県との連携の証として巨大赤べこの設置に至りました。

ちなみに、この赤べこの淡い赤銅色は、TOKYO TORCHのテーマカラーが「チャレンジし続ける情熱、炎そのものを想起させながらも、日本で古くから建築物に使用されてきた銅」であることに由来しています。
福島で古くから愛されてきた赤べこが、新たな装いで東京の玄関口に登場しました。
東京駅にお立ち寄りの際には、一度愛でてみてはいかがでしょうか。

<最後に>
この巨大赤べこは、福島県と東京をつなぐ新たなスポットとなりました。
この企画で紹介してきた上野の野口英世像や松平定信の浴恩園のように、過去をさかのぼるだけでなく、未来に続くつながりが生まれることも再発見といえるかもしれません。
※巨大赤べこの設置については、令和5年11月30日の情報です。予告なく変更になる場合がありますので、ご注意ください。

関連URL
三菱地所株式会社HP 「TOKYO TORCH」
https://office.mec.co.jp/tokiwabashi/
柳津観光協会HP 「赤べこ伝説」
https://aizu-yanaizu.com/feature/akabeko-legend/

赤べこの写真
淡い赤銅色の巨大赤べこ

建物写真
TOKYO TORCH。右が常盤橋タワー

銀座の冬の風物詩? オレンジ色に染まる紙パルプ会館 

ふくしまの冬の味覚といえば、「あんぽ柿」ではないでしょうか。
あんぽ柿は、干し柿の一種ですが、一般的なものとは違い、見た目は鮮やかなオレンジ色、中身はトロリと柔らかいゼリー状です。

これを可能にしているのが、先人が米国から持ち込んだ硫黄くん蒸の技術であり、大正時代に福島県北部の伊達市梁川町五十沢(やながわまちいさざわ)地区において現在のあんぽ柿が誕生し、令和4年(2022)に出荷100周年を迎えました。

このあんぽ柿、実は銀座の冬の風物詩にもなっています。
平成27年(2015)以降、冬の訪れとともに、銀座の紙パルプ会館前に柿ばせ(柿を吊るして干す施設)が設置され、本物のあんぽ柿が吊るされています。
この様は、まるでオレンジ色のカーテンのようです。

この柿ばせは、伊達市役所とNPO法人銀座ミツバチプロジェクトによって設置されています。

銀座ミツバチプロジェクトは、平成18年(2006)に銀座周辺で働く有志が集まり、ビルの屋上でミツバチを飼う活動からスタートしました。
現在は、屋上の養蜂場見学や採蜜体験、出前授業を通じて、子どもたちに環境や食べ物の大切さを伝える活動にも広がっています。

「ミツバチがあんぽ柿?」と首を傾げるところですが、このきっかけは伊達市職員の名刺でした。

平成27年(2015)、伊達市の職員が銀座ミツバチプロジェクトを訪問した際、名刺に載っていたあんぽ柿が担当者の目に留まり、あんぽ柿の生産者が風評被害に苦しんでいること、先人が苦労して生産技術を確立したあんぽ柿が地域の誇りであることを知って、「あんぽ柿を銀座に吊るしてみよう」という提案が生まれました。

今では12月になると、伊達市から生産者を紙パルプ会館に招待し、皆が一同に集まって手作業で柿の皮をむき、柿ばせに吊るして干した上で、1月には収穫も行っています(今年の展示は1月18日まで)。

銀座できらめくあんぽ柿、ひとつひとつがオレンジサファイアのように輝いて見えます。

福島県伊達市であんぽ柿が誕生し、たくさんの人に愛されて100年。

次の100年もめいっぱい愛されますように。

<最後に>
銀座をぶらぶら散歩することを「銀ブラ」と呼びますが、この言葉もあんぽ柿誕生と同じ大正時代に生まれたそうです。
銀ブラであんぽ柿を見上げれば、大正ロマンを感じられるかもしれません。

関連URL 
銀座ミツバチプロジェクトHP
https://gin-pachi.jp/

参考
伊達市 市政だより(2022年分) 12月号
https://www.city.fukushima-date.lg.jp/soshiki/5/54000.html

吊るされるあんぽ柿

つるされるあんぽ柿2
紙パルプ会館前のあんぽ柿

浅草寺に“日本のナイチンゲール” 福祉の母・瓜生岩子像

浅草は、東京で最も日本を感じられる場所といっても過言ではありません。風神・雷神がある雷門をくぐり、観光客でにぎわう仲見世通りを抜けて、浅草寺にたどり着くまでの道のりを多くの人が体験したのではないでしょうか。
実は、この有名な浅草寺の一角、本堂西側の新奥山(しんおくやま)と呼ばれる場所に、日本のナイチンゲールと称される瓜生岩子(うりゅう いわこ)の像がたたずんでいます。

瓜生岩子は、文政12年(1829)、現在の喜多方市にあたる耶麻郡熱塩村(やまぐんあつしおむら)に生まれ、今日の日本の社会福祉の礎を築きました。
会津の戊辰戦争の戦乱では、敵味方関係なく傷の手当を施し、戦死者に花を手向けました。これには、敵軍の大将であった板垣退助も感銘を受けたほどでした。

明治に入ってからも、教育が受けられない子供のために私財で学校を設立、生活困窮者のために無料で医療を受けられる病院を建設するなど、苦しむ人たちのために生涯を捧げました。
その功績が認められ、公益に尽くした人物に与えられる藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を女性で初めて受章しました。

浅草の岩子像は、本人死没後の明治34年(1901)、実業家の渋沢栄一らによって現在の場所に建立されます。
渋沢栄一は自身が院長を務める養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)に岩子を世話役として招へいするなど、福祉の志を同じにしていました。
その絆の強さは、銅像の建設委員長を務めたことからもうかがえます。

女性活躍の少なかった時代に、強い意志を持ち、苦しむ人たちのために尽くし続けた瓜生岩子の慈悲深さは、ひっそりとたたずむ銅像の優しい眼差しからも感じ取れるかもしれません。

<最後に>
瓜生岩子像建立の発起人の一人に板垣絹子という人物がいますが、彼女が瓜生岩子に感銘を受けた板垣退助の妻であったと聞くと、また感慨を覚えてしまいます。
浅草寺にお参りの際には、瓜生岩子像にも立ち寄ってみてください。

関連URL
喜多方市役所HP「社会福祉の母 瓜生岩子」
https://www.city.kitakata.fukushima.jp/site/iwako/
浅草寺公式サイト
https://www.senso-ji.jp/guide/guide19.html

参考
・喜多方市役所リーフレット 「瓜生岩子のおはなし」
・公益財団法人渋沢栄一記念財団 デジタル版「渋沢栄一伝記資料」

岩子像
浅草寺 新奥山にある瓜生岩子像
浅草寺
たくさんの観光客でにぎわう浅草寺

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