会津坂下町
恵隆寺(立木観音)
立木観音は、会津坂下町塔寺地区にあり、恵隆寺観音堂の本尊である。恵隆寺は古く欽明天皇のころ(540年ごろ)、梁国の僧青岩の開基による高寺の跡地に、平安時代初期に再興されたものと伝えられる。
「立木観音」といわれるように、一木彫成の千手観音立像で、8.5m余りの大像である。寺伝では弘法大師御作と伝えるが、おそらく立木観音堂と同じく鎌倉期のものとみられる。国の重要文化財に指定されている。
立木観音堂は寺伝によると、建久年間(1195年ごろ)建立されたと伝えられる純和様建築で国の重要文化財に指定されている。
心清水八幡宮の長帳
会津坂下町塔寺の心清水八幡神社所蔵の宝物。八幡神社の例年の行事である大般若経・仁王経の転読やその配役、次回の予定や当番などを記載したもので、全長397尺(約120m)に及ぶもので、「長帳」と呼ばれる。その記録は、貞和6年(1360)から寛永12年(1635)にわたる286年間の記録で、中世の会津地方の信仰を知るうえで貴重な資料である。
この資料のもう一つの学術的価値を有するものとして、その裏書がある。そこには中世の会津を中心とした社会の動きや災害・異変などが記載されている。中世の歴史資料が少ないなかで、長帳は会津の中世の歴史を記載した貴重なもので、国の重要文化財に指定されている。
宇内薬師
宇内の薬師様は、会津坂下町上宇内の調合寺の本尊薬師如来である。会津五薬師のひとつである。中央の薬師(国宝、勝常寺の薬師如来像)よりやや時代は下るが、平安中期の作と考えられる。像高1.76mのハルニレ一本造りで、国の重要文化財に指定されている。
宇内という地名は、院内の内またはお寺の内の意である。高寺と宇内の地は、欽明天皇元年(540)に梁の国の僧青岩が開いたという伝説もある。
亀ケ森古墳
亀ヶ森古墳は、只見川流域の会津坂下町青津地区の西はずれにある前方後円墳である。全長127m、後円部直径67mという大規模なもので、東北第2位の大きさである。墳丘の周囲には幅の広い周濠が巡らされている。典型的な中期古墳と考えられるが、近年墳丘から前期と思われる埴輪の破片が採集され、前期に築かれた古墳である可能性が強くなっている。
近くには鎮守森古墳(全長55m、前方後円墳)が向きあうように築かれており、両者の密接な関係がうかがわれる。両古墳の主は、会津盆地西部を基盤とする歴代の王者であったと考えられる。
立川ごぼう
会津坂下町立川集落周辺で栽培されている牛蒡である。アザミ葉牛蒡と呼ばれ、葉にアザミの葉のように切り込みがあるもので、この種の牛蒡の栽培地は現在立川周辺のみとなった。立川では、通常の丸葉の牛蒡に対し、アザミと区別して呼んでいる。農書等の記録では、明治以前は各地で栽培されていたが、消滅した品種である。
10月上旬から12月中旬ごろまで収穫される。香りがよく、肉質がやわらかで定評があり、会津の伝統野菜にも選定されている。
片門の船橋
片門は会津坂下町西部に位置し、只見川を左岸にし、川向には船渡集落がある。片門という地名は、人家が街道の南に只見川に面して並んでいたので「片門」の名が起ったという。
片門と船渡との只見川には、古くから渡し船による往来が主で、永正3年(1506)芦名盛高が渡し守に与えた安堵状が塩田家に伝わっている。明治初期から大正初期にかけては、船を何艘も並べた上に板を敷いた船橋があったことが古写真や古絵図などからわかる。明治11年にはイギリスの女性探険家イザベラバードが、『日本奥地紀行』の中で当時の船橋の様子を詳細に記述している。