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第3章 只見川の文化

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年12月31日更新

 流域の生活風景

 只見川の自然的な恵みは、原始・古代から現代にまで人々の生活を潤している。かつては鱒や鮭の漁撈、現在では水力発電により都市部への電力供給を行っており、田子倉・奥只見発電所などはわが国の近代化に大きく貢献してきた。

 下流にダムが建設される昭和初期までは、日本海より鱒や鮭が遡上し、人々にタンパク源として食され、その漁撈用具が当時の様子を伝えている。只見川・伊南川の魚類は「飯鮨」などの伝統的な食風俗も継承されてきた。

 春先の豊富な水量を利用し、山林より伐採された木材を筏に組んで下流の新潟まで流送した筏流しもダム建設されるまで盛んに行われてきた。只見川は水量が多かったため橋が少なく、イグリブネと呼ばれる丸木船による渡しがあったことが江戸時代の風俗帳などに記載されている。柳津町麻生の渡しが、只見川最後の渡しとして昭和50年ごろまであった。

 只見川はU字谷と呼ばれ、山と山の峡谷を流れている場所が多く、その傾斜地ではカノと呼ばれる焼畑により、粟やキビ、赤カブなどの雑穀類・根菜類が原初的な農法で栽培されてきた。粟やキビなどの収穫に用いられるコウガイと呼ぶ穂摘み具は、全国的に只見川流域にのみ存在する民具である。

 只見川の豊富な水量は、交通の便にも利用をされた。いわゆる舟運である。新潟港より塩をはじめ衣類など、会津より米・焼物などが運ばれた。しかし、西会津町の銚子ノ口のような激流の難所もあり、この間は「中追」とよばれる馬による運送であった。銚子ノ口や利田(旧高郷村)の滝付近には「舟引き道」と呼ぶ、舟を岸より引き上げる細い道もあり、その一部が現在も存在する。

 只見川は、舟運はじめ漁撈などの他、下流域から多くの文化がのってきた。エゴと呼ばれる海草の食習俗などもその一例である。西会津町から喜多方市付近まで、春の祭りなどに食される。

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