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柳津町

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年12月31日更新

麻生の渡し

麻生の渡し

 ダム式発電所ができる以前の只見川は、洪水が多く発生する暴れ川であった。そのため橋も流失することが多く、舟による渡しが遅くまで続いた。江戸時代の風俗帳等の記録には、イグリとかエグリと呼ばれる丸木舟による渡しも行なわれてきた。
 柳津町麻生の渡しは、沼田街道と対岸の麻生村を結ぶ大規模な渡しで、昭和48年ごろ完成した永久橋ができるまで存在した只見川最後の渡しであった。

石生前遺跡

 柳津町大字石生字石生前にある縄文時代中期から後期に属する遺跡である。只見川流域に発達する上位の河岸段丘の平坦部に残された大きな遺跡で、現在は大部分が畑である。立体的装飾をつけた大形の縄文中期の土器を多量に出土し、土偶なども発見されている。特に、火焔文土器は会津地方における代表的なものである。

冑中の藁人形

冑中の藁人形

 只見川流域の柳津町から三島町、西会津町の越後街道沿いには、2月3日の百万遍の日に村境にニンギョウ様と呼ぶ藁人形を建てる行事が、昭和30年ごろまで存在した。柳津町冑中では、現在も2月3日に男女一対の藁人形を作り、村境で夕方に焼く行事を行なっている。かつては村の上と下の入口に、男女それぞれの藁人形を立てていた。家族や村内の悪霊を藁人形につけ村外へ送るという、またこの人形を立て村内に悪霊が入ってこないことを祈る。
 この行事は新潟県阿賀町津川や鹿瀬などで、現在も行なわれている。

粟まんじゅう

 虚空蔵尊をまつる柳津町の名物、糯粟で作るまんじゅう。只見川沿いに建つ福満虚空蔵尊(円蔵寺)は、度重なる水害にあい御堂の被害も多かった。文政13年(1830)、時の住職、喝岩和尚が二度と災難に「あわ(粟)ぬように」と考案して菓子屋に伝えたと言われている。
 柳津の虚空蔵尊は奥会津地方の玄関口でもあり、粟やきびなどカノ(焼畑)による雑穀栽培が多く行なわれ、十三参りなど虚空蔵様の参詣者のお土産として、あわまんじゅうがつくられたものとも考えられる。

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