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第3章(民間の入植と開拓、そして現在)

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年12月1日更新
 第3章(民間の入植と開拓、そして現在)
福島県と北海道の交流のあやみ

 

第3章(民間の入植と開拓、そして現在)

 明治半ば、政府は民間資本導入による北海道開拓政策の転換に迫られた。これは資本主義の発展に伴い農民層の分解が進み、多くの貧農が離村するという現象が日本中で起きたことによる。それまで主体であった士族から農民層へと移住者が変わり、明治20年代から大正期にかけて移住者の数は最盛期を迎えた。 福島県からの北海道移民も、明治前半は戊辰戦争の戦いに敗れ失業した士族が中心であったが、明治の後半からは農民が大部分を占めるようになった。その数は明治末期から大正初期にかけて毎年1000~1500戸、3500~5400人にもおよんだ。その一人ひとりが、一家族ひと家族が苦労を重ね荒野を拓き、近代・北海道の礎を築く一助にもなっている。 

 そして現在、開拓者たち先人の意思と心は地名や神社、祭り、食生活などの生活文化を北海道の各地に色濃く残し、北海道と福島県の関係をより深く今に伝えている。

明治15年(1882)開拓使が廃止、北海道を札幌、函館、根室の3県に分割。
明治19年(1886)北海道庁の設置、再び統一的な行政が行なわれる。
明治24年(1891)旧会津藩士の丹羽五郎が瀬棚村(北檜山町字若松)に移り住み、丹羽農場を開設。翌年、猪苗代付近から移民団が入植。
明治29年(1896)会津殖民組合が太櫓村(北檜山町字若松)に入植、若松農場を開設。
明治30年(1897)相馬から興復社の移民団が中川郡豊頃村ウシュシュベツ原野(豊頃町字二宮)に入植、開拓に着手。
明治31年(1898)伊達郡から上川郡旭川村ペーパン(旭川村)に福島団体が入植、開拓に着手。

興復社二宮尊徳の孫であり、当時、興復社の社長であった二宮尊親により明治30年(1897)、福島県下の困窮農民を北海道に移し、報徳精神を持って土地を開墾させ、自作農として自立させようという移住事業を行った。尊親は自ら移民団の先頭に立ち、180戸の移住者と共に豊頃村に移り住み、1200町歩余の農場を開拓した。また、尊親は報徳の精神である道徳と経済の一体化を図り、徳を持って徳に報いる教育を広め、今も北海道各地で報徳精神に基づく自主的な地域づくりと人づくり運動が進められている。

福島団体明治31年(1898)、当時伊達郡大田村の村長をしていた菊田熊之助が職を辞して移住を決意。先発隊5名と共に東旭川の山岳地帯であるペーパン川流域に入植、笹小屋10戸を建て第1陣52戸・173人を入地させた。入植当時、洪水などのため困窮を極めたが労苦を重ねながら開墾事業を軌道に乗せ、明治37年(1904)、同38年(1905)頃には福島団体として総戸数78戸・423人にまで規模を拡大させた。昭和54年(1979)、移住90周年を記念して郷里の伊達郡保原町の愛宕神社境内に「福島団体北海道移住記念碑」が建てられた。

 

参考文献 「北に生きた会津武士と農民~福島県と北海道」 北海道開拓記念館 「北のまもりと開拓」 会津武家屋敷

 

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