ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
ホーム > 組織でさがす > 会津若松建設事務所 > 二、県道赤留塔寺線沿線の魅力 4.中田の観音さまと米沢

二、県道赤留塔寺線沿線の魅力 4.中田の観音さまと米沢

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年12月1日更新
   ホーム

二、県道赤留塔寺線沿線の魅力

4 中田の観音さまと米沢

米沢より会津盆地を望む

米沢より会津盆地を望む

 明治に入って、米沢と根岸中田とが一緒になって米田という大字になった。「米沢」の名は山の沢の名であった。ここは潅漑用水が不十分であったので、慶安三年(一六五〇)に西に大堤を築いて潅漑用水にあてた。

見事な樹冠と濃紅色の桜花

米沢の千歳桜 米沢の千歳桜

 ここで有名なのは、集落の西の田園の中にある、「米沢の千歳桜」(県指定天然記念物)である。目通り約五メートルのベニヒガンザクラで、傘状の美しい姿は会津の人々からこよなく愛されてきた桜である。丁度種を蒔く時節になると花が開くので別名「米沢の種蒔桜」とも言っている。  根岸中田は米沢の北にあり、肥沃な水田と畑が集落の東南北の三方に広がっているが、この村の開発はかなり古いようだ。江戸時代の軽井沢銀山が隆盛の時は物資輸送の人馬がしきりに往来していた。

 

観音様と温泉

弘安寺 中田観音堂 中田観音堂(弘安寺)

 米沢の集落より、二キロほど北東に行くと、中田の観音さまと親しまれている弘安寺がある。この中田の観音様に参詣して、新鶴健康温泉センターで湯につかり、清々しい気分になって帰って行く人の群れが、三々五々下る姿が見られるのも楽しい。このあたりは高台になっているので、シーズンには只見線を行くSlが汽笛を鳴らし、煙をなびかせて、会津の穀倉地帯を走る雄姿を眺めることもできる。

 

 

観音様が中田で動かなくなった

銅造十一面観音像 脇侍 地蔵菩薩像 脇侍 不動明王像      銅造十一面観音像     脇侍 地蔵菩薩像   脇侍 不動明王像

 弘安寺の寺伝によると、近郷の佐布川集落の長者、江川常俊は子に恵まれなかった。そこで、雀林の法用寺に二十一日の願掛けをしたところ、常姫という女の子が授かった。常姫十七歳の時、法用寺にお礼に参詣したが、門前の虎の尾桜の下で、娘が地頭の若様富塚盛勝を見初めたが、恋を成就できずに死んでしまった。最愛の娘を亡くした江川夫妻はこの地方には十一面観音信仰が盛んであったので、全財産をなげうって十一面観音と不動、地蔵の二菩薩を造り、娘の供養をしようとした。  なお、この悲恋物語から「根岸中田村と佐布川村とは最近まで結婚はしなかった」(『奥州会津新鶴村誌』より)というが、今はそんなことはないだろう。  ここから約一キロ佐賀瀬川の方に登った道の左に「金ぐら壇」という所がある。そこはこの金銅造の仏像を造ったとされる場所なのである。ここで、型取りをして銅や金を溶かそうとしたのである。ところが、失敗ばかりしてなかなか完成できなかった。諦めようとした時、白髪の老人がやってきて、七日七夜かけて火を焚いたところ、見事に溶けて立派な仏像を造る事が出来たという言い伝えがある。  さらに伝説は続く。出来上がった仏像を牛七頭で引いて法用寺まで行こうと、この中田まで来ると牛が一歩も動かなくなった。激しく車を引くけれど綱は切れ車は壊れるで、ほとほと困ってしまった。しかたなく、この場所に四面四間の観音堂を建ててこの観音像を安置したという。時に文永十一年(一二七四)のことだった。  中尊は、銅造観世音菩薩立像(高さ一八七センチ)、脇侍は向かって右に銅造不動明王立像(高さ九五センチ)、左に銅造地蔵菩薩立像(高さ九四センチ)。すべて鎌倉中期の作で国重文である。昔より霊験あらたかな観音様である。

信仰厚かった野口英世の母

信仰厚かった野口英世の母

 野口英世の母シカが猪苗代から月詣りのため、四〇キロの道程をものともせず歩いて通ったという話は有名である。功なり遂げた大正四年九月十五日、野口英世と恩師小林栄先生と母シカとでお礼のため参詣している。その時の写真が堂内に飾られてある。このように近郷近在をはじめ、会津各地から参詣者が絶えなかった。参道には門前町の面影がかすかに漂い、棒鱈の煮物やニシンの山椒漬けなどを出す店もある。  また、この観音さまは「ころり観音」「日切り観音」と言って、「亡くなる時は中田の観音様に行け」という観音様の声を聞いて死出の旅路へ旅立った老人の話が伝えられている。

中田観音に入る前の街道より 中田観音に入る前の街道より

 

 

 

 

 

 

土守りの御利益

弘安寺 旧観音堂厨子(弁天堂) 弘安寺 旧観音堂厨子(弁天堂)

 別名「ころり観音」といい、堂内の抱き付き柱に抱きついて祈祷すれば悪事災難を除き長寿できるという。死の床についた時は、家族に余計な心配をかけないように、三日、五日、七日、十日にして成仏するように祈れば「コロリ」とあの世に行けるというのである。  その外、この寺には「土守り」というご利益がある。観音様を造った時の土をお守り袋に入れて旅に出ると無事に家に帰れるといって持って行く人が多かったという。戦時中、この村の兵士たちが出征する時は観音様にお参りしてこの砂を持って行ったという。この村から出征していった四八名全員が無事に戻って来たという奇蹟が起こったというのだ。  また、この寺には大正十四年十二月二十七日に出された、東宮大夫伯爵珍田捨巳氏のお礼状が大切に保管されている。これは、昭和天皇の御長女のご出産の折、当寺のご安産御祈祷により無事ご出産なされた御礼状である。

唐様建築の田子薬師堂

常福院薬師寺(田子薬師堂) 常福院薬師寺(田子薬師堂)

 中田の観音様の北、二キロほどの新屋敷には、田子(た ご)薬師堂と親しまれている国重文の薬師堂がある。田子重兵衛道宥という地頭がこの堂を創始し、李の木で薬師像を彫って安置したので一名、李(すもも)薬師ともいわれている。一重入母屋造、総円柱。軒の出が深く屋根勾配が急で地方の禅宗様式仏堂の特色をよく示している貴重な建造物である。構造からいって室町中期の唐様建築の代表的なものとして価値が高い。

 

 

BackBack                                                               NextNext

Copyright(C)2007 Aizu-Inishie All rights reserved