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福島県と北海道の交流の歴史

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年1月23日更新

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・紋別市

 

函館市

 【傷心惨目の碑(しょうしんざんもくのひ)】

 明治2年(1869)5月11日(新政府軍総攻撃の日)、五稜郭決戦の日に傷ついた榎本武揚率いる軍兵士が収容されていた箱館病院分院(現高龍寺)に津軽、松前の兵士が乱入し、会津藩士の医師赤城信一を捕らえ、傷病者十数人をメッタ切りにして寺に放火した。このため多くの収容者が生きながら火葬になった。その多くは旧会津藩士であった。この霊を供養するため、明治13年(1880)に建立されたものである。
 碑には「傷心惨目」、「会津残同胞共建」(会津残同胞 共に建つる)と記されている。高龍寺は明治12年(1879)に現在地に移転した。
 函館福島県人会は毎年5月11日に碑前祭をひらき、亡き藩士の霊を慰めている。昭和55年、松平元知事が来函の折り、会津山中の自然木「紅更紗どうだんつつじ」を碑の右隣に植樹された。

【碧血碑(へっけつひ)】

 箱館戦争で戦死した土方歳三(元新撰組副隊長・榎本軍陸軍奉行並陸海軍裁判役頭取函館市中取締)ら約800名の旧幕府軍戦死者を祀ったものである。明治8年(1876)谷地頭町函館山山麓に建立された。碑名も建立者も不明であるが、榎本武揚や大鳥圭介であろうと言われている。碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年経つと碧色になる」との中国の故事によるものである。
 昭和55年、松平元知事が来函の折り、会津山中の自然木「紅更紗どうだんつつじ」を碑の前方左側に植樹された。

【五稜郭(ごりょうかく)】

 幕府の箱館奉行所として造成された。本格的な洋式城郭としての形態をとり、8年の歳月を費やし、元治元年(1864)に完成した。明治新政府の支配地になると、慶応4年(1868)ここに箱館裁判所を置いた。
 慶応4年北海道の鷲ノ木に上陸した旧幕府軍の榎本軍は、箱館に進攻し、五稜郭を占領した。榎本軍とともに行動した会津遊撃隊も、五稜郭に駐屯した。

【会津ルスイ跡】

 古地図に「会津ルスイ」(会津藩は幕命で箱館留守居役となる)の表示があり、御役所隣の弥生町一番付近にあった。箱館戦争時は榎本軍将兵の駐屯地となった。建物は安政6年(1859)、会津藩が東蝦夷地の領有・警護時代に分営地として建てた。

【諏訪常吉の墓】

 会津遊撃隊隊長であった諏訪常吉は、明治2年(1869)4月29日、矢不来(やぎない)で負傷し、箱館病院に収容されたが、5月16日病院で死去した。39歳であった。実行寺(じつぎょうじ)に墓がある。矢不来で戦死した会津遊撃隊士は、他に、安部井政治、斎藤主税、松川信平、里見重太郎などがいる。

【土方歳三最期の地碑】

 箱館戦争において、旧幕府軍の高官の中で戦死したものは少ないが、その一人である土方歳三の死は極めて劇的であった。明治2年(1869)5月11日の新政府軍総攻撃の日、包囲された弁天岬台場を奪回するために、土方は少数の精鋭を率いて一本木(現在の若松町)に屯する適地に乗り込み、銃弾をあびて戦死したといわれている。この碑は、昭和33年戦死の地(市内若松町、函館駅近く)といわれる場所に建立された供養碑である。
 なお、土方の埋葬地には諸説があり、五稜郭内が最有力と言われているが、市内神山町大圓寺や市内吉川町極楽寺との説もある。

【徳川藩士戦死之霊碑】

 榎本軍八十余名を供養するための慰霊碑である。会津藩士・沢田光長が建立した。実行寺境内にある。

 

北斗市(旧上磯町)

【会津藩の陣屋と蔵屋敷】

 北斗市上磯町飯生町(旧戸切地―へきりち)の一帯は陣屋の内(なか)と呼ばれ、今でも陣屋橋という橋がある。会津陣屋のほかに蔵屋敷が古地図で確認できる。会津藩絵師・星暁邨が描いた箱館の図屏風にも戸切地が描かれている。ここが会津藩の蝦夷地経営の拠点になっていたことは、会津藩士・鈴木平八が残した日記「蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ御陣屋御造営日記」に記されているとおりである。

[参考文献]
  ・蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ 発行年 昭和60年3月31日   御陣屋御造営日記       発行者 標津町郷土研究会
   (出張仰付~蝦夷地戸切地着到)
  ・蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ 発行年 昭和61年3月31日   御陣屋御造営日記       発行者 標津町郷土研究会
   (藤野喜兵衛の切組御長屋一棟献上~陣屋材切組皆出来上り)

【会津藩士家族の墓】

 市内の東光寺に「会津藩中・太田藤蔵妻之墓」がある。戸切地の陣屋に常駐していた藩士の家族の墓と言われている。

 

松前町

【松前氏の梁川移封】

 蝦夷島主であった松前氏は2度にわたり陸奥国伊達郡梁川(現伊達市梁川町)に移封となった。最初はロシアの脅威が甚だしくなり、幕府が蝦夷地を幕府直轄とした第1次幕領期にあたる文化4年(1807)から文政4年(1821)までである。藩士達は松前(福山)から梁川に移り、画家として有名な家老蠣崎波響も、「梁川八景図」など多くの作品を残した。
 2回目は、蝦夷島の第2次幕領期の安政2年(1855)から明治維新までである。この時代には松前藩の根拠地は松前にあり、梁川は分領であった。分領は出羽国村山郡東根などにもあり、その総石高は3万石であった。

[参考文献]
  ・梁川町史 6 近世1 資料編3  発行年 昭和61年2月27日
                   編集  梁川町史編纂委員会
                   発行  梁川町

【松前城(福山城)】

 会津藩が文化5年(1808)樺太警備に赴いたときの中継基地として重要な役割を果たした。箱館戦争では、明治元年(1868)11月、土方歳三が率いる旧幕府軍が松前城を陥落させた。このとき、会津藩士の赤羽音吉が戦死した。享年26歳。墓は法華寺にある。
 しかし、翌年の4月には新政府軍が松前城を奪回した。このときには、会津遊撃隊の阿部井政次、依田頚次、斎藤主税などが戦死した。

【松前漬のルーツ】

 梁川町など福島県の県北地方の郷土料理に「イカニンジン」がある。これはするめ(場合よっては生イカ)と人参を細切りにして酒、醤油等で味付けした料理で、松前氏が移封された梁川町からこれを持ち帰り、「イカニンジン」に昆布を合わせたものが「松前漬」になったと言われている。

 

七飯町

【七重官園】

 開拓使時代の官営農場である。アメリカ人ケプロンの献策で、明治4年(1871)まず東京に、官園が三ヶ所設けられ、外国から購入した動植物を入れ、その適否を観察した。その後、道内の七重、札幌、根室に官園を設けた。
 七重官園は最も多角的内容を持ち、殖産、牧畜、林産、養蚕、各種製造・加工を包括し、大野養蚕場、桔梗野牧羊場を附属としていた。また、農業希望者の指導、洋式農業の研究、試験栽培魚の孵化なども行い、北海道農業の基地的役割を果たした。七重官園には、毛木房吉、増子庄吉、田中琳左右衛門など、およそ10人の旧会津藩士が活躍していた。

【ガルトネル事件】

 プロシア人(ドイツ)R・ガルトネルが租借した土地を明治政府が回収に苦労した事件。ガルトネル農場には旧会津藩士の箕輪醇が入塾し、当時の西洋農業を代表するプロシア農法を学んだ。
 ガルトネルは、兄弟で箱館に来て貿易商を営み、兄弟で農業開発を口実に箱館奉行から亀田神山の地を借りた。明治新政府に変わると七重地方(七飯町)へ手をのばし、榎本軍と開墾条約を結び約1千ヘクタールを99年間無償で租借することに成功した。榎本軍降伏後、新政府は明治3年(1870)、六万二千五百ドルの賠償金を払うことで妥結し、ガルトネル兄弟は大金を手に翌年箱館を去った。
 ただ、ガルトネルが洋式農業を伝えた功績は認められており、七飯産のブドウにもその名が残り、現在もブナ林が七飯町に残っている。

[参考文献]
  ・特別展「七飯の源流を探る」5   発行年 平成14年8月
   会津の人々と七飯         発行  七飯町歴史館

 

森町

【会津藩遊撃隊上陸の地】

 明治元年(1868)10月2日、仙台を発った榎本軍は、ここ森町の「鷲ノ木」に上陸した。会津藩士は遊撃隊を結成して、榎本軍に加わっていたが、その人数は百とも二百ともあるいは三百とも言われているが、確かな数字は不明である。会津藩家老・西郷頼母近悳(さいごうたのもちかのり)も同行したが、その行動もなぞに包まれている。

 

せたな町(旧北檜山町)

【丹羽地区】

 明治25年(1892)、元会津藩家老・丹羽五郎が東京神田和泉警察署長を退職し、猪苗代からの移民12戸、49名を引率してこの地へ入植した。丹羽五郎は若い頃から理想郷をつくることが夢で、肥沃な丹羽地区(549ヘクタール開墾)を選定したと言われている。
 大正3年には「丹羽部落基本財団」を設立し、農畜産物の改良・奨励や道路、神社、説教所、教育施設などをつくることに貢献し、丹羽部落の今日の繁栄と発展をもたらした。丹羽地区は、1戸あたり5ヘクタールを割り当てし、開拓後はその80%を入植者の所有、20%を永小作地とする「2分8法」を取り入れた模範開拓として有名である。
 また、入植地に鶴ヵ台、亀ヵ台の字名をつけたほか、猪苗代湖を模した池をつくるなど、郷里を偲ばせるものを配置した。丹羽地区の玉川公園には、会津白虎隊士十九士の碑があり、遙拝所となっている。この碑は、丹羽五郎が、十九士の中の二人のおいを弔うために建立されたものであり、例年秋には碑前祭が催されている。
 現在、丹羽小学校と猪苗代千里小学校が交流をしている。

【荷卸の松・丹羽発祥之地記念碑】

 明治25年(1892)3月21日、丹羽五郎らは、原始林のうっそうとした中のイチイ(北海道では「オンコ」と呼ぶ)の木(後に「荷卸の松」と命名)に荷をおろして開拓を始めたと言われている。
 現在も西丹羽地区の国道230号線沿いにこのイチイの木が残っており、平成元年、そこへ「荷卸の松・丹羽発祥之地記念碑」が建立された。

【丹羽五郎翁頌徳碑、丹羽村「開基百年」記念碑】

 昭和16年(1941)丹羽村建村50年祭が施行され、玉川公園内に「丹羽五郎翁頌徳碑」が建立された。また、平成3年(1991)には入植して百年を迎えたのを記念し、盛大に式典が行われ、玉川公園内に「開基百年」と書かれた記念碑が建てられた。

[参考文献]
  ・ひらけゆく丹羽      発行年 平成3年3月
                編集  ひらけゆく丹羽編集委員会
  ・北檜山町史        発行年 昭和56年12月1日
                発行所 北檜山町
  ・我か丹羽村の経営     発行年 昭和3年7月20日
                著作者 丹羽五郎

【若松地区】

 この地への入植のきっかけは、明治21年の磐梯山大噴火による被災者の救援対策であったといわれており、会津藩士ではなく、会津の農民らによる開拓であった。明治29年(1896)、会津若松の経済人、高瀬喜左衛門、林賢蔵、石山源太郎、福田宜平、石堂留吉、大須賀善吉、五十嵐惣吾、穴沢祐造の8名が「会津殖民組合」を設立し、北海道の開拓をめざした。同年8月穴沢祐造を組合主任、笹原倉次郎を農場管理人として開拓を始めた。これら富農の小作人が入植し開墾作業にあたった。
 筆舌に尽くし難い苦労の末に若松地区を築き上げたが、主だった者はいろいろなトラブルの末に会津に戻ったらしい。このため、残った小作人の人々と会津若松との交流はほとんどなかったが、平成7年、地区開墾100年を迎えるにあたり、調査を行った結果、会津若松との関わりが判明し、有志が会津若松を訪問した。
 現在の町並みには、若松神社、若松山法覚寺、バス停若松など、会津若松に由来する名前が多く残っている。また、当地にはJA新はこだて(若松基幹支店)という農協があり、道内でも良質の米の産地として知られており、平成8年から「北の白虎米」としてイラスト入りで売り出している。

【開拓記念碑(若松地区)】

 若松山法覚寺(浄土真宗大谷派)境内にあり、会津で造られ、昭和9年5月に建立された。篆額(てんがく)は、元北海道長官・佐上信、撰文が会津若松市栄町の佐治勇平、書は元二高教授・四竃仁雨である。
 碑には「当時密林天を覆い、棗道をふさぎ狐途熊徑錯綜せり。……第一次移民十一戸、各所に茅屋を営み耘シに従事す。榛を除き草を刈り具に苦楚をなめ……」と開拓の苦難が語られている。

【祖松(みおやのまつ)(若松地区)】

 雌雄のイチイ(オンコ)の大木で、樹齢は600年以上と推定されている。入植の事前測量の際発見され、若松開拓の記念の木とされた。町文化財にも指定されている。

[参考文献]
  ・わかまつ百年          発行    若松開基百年実行委員会
  ・開拓三十五年 北海道若松
  ・会津殖民組合の北海道開拓    発行年   平成8年8月20日
                   編集・発行 北海道開拓記念館
  ・北檜山町史           発行年   昭和56年12月1日
                   発行所   北檜山町

 

岩内町

【高橋常四郎翁碑】

 町内大和の大和公園にある。旧会津藩士で、岩内郡副戸長、岩内私学校などに奉職し、この地方の私学の振興や和歌の普及に尽力した高橋常四郎の頌徳碑で、昭和39年5月に建立された。この碑(島善鄰書之)には「老人の赤き心をあらはして濃染の梅は咲きそめにけり」という常四郎の和歌が刻まれている。

【簗瀬真精の住居跡】

 簗瀬真精は、会津藩家老・簗瀬三佐衛門の分家である。明治13年(1880)、開拓使岩内郡古宇郡長になる。現在、岩内町清住に真精の書院風隠居邸が残っている。

 

余市町

【旧会津藩士の入植】

 明治2年(1869)9月、戊辰戦争戦犯の罪で東京に謹慎中となっていた旧会津藩士200戸が北海道に流罪となった。平時は開拓、有事の際は軍隊とすべく北海道に送り込まれた。
 北海道に渡ったところで罪が赦され、本来の目的が立ち消えとなったため、200戸の旧会津藩士は進退に窮してしまった。その時、開拓使次官・黒田清隆のはからいで北海道開拓使の管轄下に入り、明治4年(1871)、余市川の上流地シブト地区に入植した。入植地は余市入植の恩人黒田清隆の「黒」と「田」、何かと面倒を見てくれた開拓使監事・大山荘太郎の「山」、移民団総取締の宗川熊四郎の「川」の各字を組み合わせて3人に感謝の意を込めて、余市川の東地区を「黒川村」西側地区を「山田村」、両村を結ぶ余市川に架かる橋を「田川橋」と呼んだ。
 入植者数は当初の200戸のうち193戸と翌5年入植の33戸の計226戸であった。入植した人たちは、最初に子弟を教育する学校をただちに設立し、会津藩の学校の名前をとって「日進館」(故郷の日新館を名乗るのは僭越と考え日進館と称した)とした。
 開墾は困難を極めたが、途中で開墾機械が開拓使本庁から導入されたことなどにより、開拓が進み、余市町創建の足がかりとなった。この間、開拓に不向きな者や会津藩士の教養の高さをかわれて開拓使に出向した者など、余市を離れた旧藩士も多かったが、余市町創建という輝かしい足跡は、旧会津藩士たちの困苦欠乏に堪え、艱難辛苦した努力によるもので、その栄光は永久に消えることはない。

【開村記念碑】

 明治4年(1871)旧会津藩士・宗川熊四郎茂友らが、余市黒川、山田両村に入植して50年目の大正9年(1920)、旧藩士及び末裔たちが建立した。題字は旧藩士で海軍大将の出羽重遠筆である。碑は黒川にあり、松平元知事が来道の折り、碑の左側にイチイの木(オンコの木)を植樹された。

【萱野権兵衛殉節碑】

 戊辰戦争の責任を負って、自刃した会津藩家老・萱野権兵衛の忠節を追慕して旧藩士の末孫たちが昭和12年に建立した慰霊碑である。篆額(てんがく)は松平家十二代当主・松平保男、撰文は旧会津藩士で陸軍大将の柴五郎である。碑は黒川の余市日進館跡にあり、開村記念碑の道向かいである。

【幻の志業永伝の碑と会津藩士之墓碑】

 余市山田に入植した会津藩の刀匠・七代目鈴木半兵衛香兼友は、開拓に当たった創業の苦しみを子々孫々に伝えるため、明治21年(1888)、余市美園の墓地内に慰霊碑を建立した。かつての開拓使次官で総理大臣の黒田清隆より「志業永伝」の篆額を得、旧会津藩士・箕輪醇の撰文及び書による碑文を銅板に刻み、石柱にはめ込んだものであったが、盗難に遭い石柱だけが残った。
 昭和60年、撰文者箕輪醇の末孫に当たる京王帝都電鉄(株)社長・箕輪圓氏宅に碑文の拓本が所蔵されていることが判明するが、皮肉にも一年前の59年に余市在住の会津藩士会が慰霊碑の空碑に「会津藩士之墓」と刻み修復したので幻の碑となってしまった。

【余市町のりんご栽培】

 開拓使次官・黒田清隆がアメリカからりんごの苗木を輸入し、開拓使七重官園で増殖後、全道に配布した。余市の気候が適したこと、赤羽源八ら旧藩士達の努力が実を結び、見事な緋ノ衣(ひのころも)や国光が実り、一時は青森りんごと名声を二分した時代もあった。
 平成11年8月、平塚康成氏が会長を務める「会津平成りんご研究会」が余市町を訪れ、交流を深めるとともに、最初に植えられたりんごで、余市町に原木が1本残るのみの幻のりんご「緋ノ衣」の穂木を吉田清亥氏(猪苗代町出身)から譲り受け会津に持ち帰った。平成17年秋、15本の木が結実し、本格的な収穫に成功した。平成20年には、会津坂下町の菓子店が、これらの木に実ったりんごを用いた「緋の衣アップルパイ」を商品化している。

[参考文献]
  ・余市移住旧会津藩士の足跡   発行年 平成6年3月20日
                  編集  余市郷土史研究会
                  発行所 余市文化団体連絡協議会
  ・余市農業発達史        発行年 昭和43年4月1日
  (余市郷土史第二巻)      発行者 余市郷土史編集委員会
  ・サムライ移民風土記      発行年 昭和58年3月20日
   ―会津藩と北海道―      編著  栗賀大介
                  発行所 余市文化団体連絡協議会
  ・北のまもりと開拓       発行年 平成5年5月
   ―会津藩と北海道―      編集  会津武家屋敷 文化財管理室
                  発行  会津武家屋敷

 

小樽市

【会津藩向井流水法】

 会津藩は北方警備等の海防の軍事的必要性から、御船手奉行の旗本・向井家に代々伝わる水軍法の伝授を受けていた。これが「向井流水法」と呼ばれる水軍法である。このうちの泳ぎは「水業(みずわざ)」と異称され、明治28年、箱館戦争に参戦した旧会津藩士・大竹作右衛門元一によって小樽で根をおろし、現代へと脈々と継承され、小樽市教育委員会が向井流水法を普及させた。
 その後、向井宗家直属の指導が行われ現在に至っており、平成3年には、小樽市の無形文化財の指定を受けた。

【旧会津藩士の墓】

 箱館戦争に参戦した大竹作右衛門夫妻、松田清介などの墓が、市内緑町の中央墓地にある。

【小樽日報社と石川啄木】

 小樽日報社は創立が明治40年(1907)で、社長は福島県出身で自由民権運動に参画し、福島県では衆議院議員も務め、一旦政界を退いて、北海道に渡り、当時北海道議会議長をしていた白石義郎だった。できたばかりの小さな新聞社に石川啄木は80日間勤務した。小樽日報の発刊には啄木のほかに野口雨情も加わっていた。啄木と雨情は三面記事を担当したが、雨情は主筆の岩泉江東とことごとく対立し、わずか十数日で小樽を去った。啄木も事務長の小林(中野)寅吉(福島県美里町出身でのちの憲政会代議士)と対立し、雨情のあとを追うように退社し、白石が社長を務めるもう一つの新聞社、釧路新聞に入社した。
 現在の本間内科医院が小樽日報社跡とされ、医院前には案内板が立っており、「かなしきは小樽の町よ歌うことなき人々の聲の荒さよ」という啄木の歌が載っている。

 

伊達市

【新地会】

 旧伊達藩からの入植者によって開拓され、現在の伊達市に発展した。宮城県亘理の旧伊達藩とともに旧伊達藩の新地町からも入植した。その新地町からの入植者により「新地会」が組織されている。現在、会員は45名で、会長は秋本允氏である。

 

室蘭市

【会津の弔魂碑】

 箱館戦争での戦死者を弔った碑。明治14年(1881)8月23日に建立された。市内の満間寺にある。

 

苫小牧市

【原直次郎と苫小牧福島県人会】

 会津藩士原早太の子直次郎は単身北海道に渡り開拓使に仕えた。苫小牧において苫小牧戸長や警察署長などを務めたあと、王子製紙の誘致など、地元産業の振興に大きく貢献するとともに、「学校法人原学園」の基礎を築くなど教育振興にも尽力し、現在の苫小牧市繁栄の基礎をつくった。
 平成18年5月に苫小牧市で開催された福島県人会連合会総会の折り、佐藤前知事、渡辺県議会議長及び菅家会津若松市長が原直次郎の墓を訪れ、献花を行った。
 平成元年、北海道で行われた「ハマナス国体」を契機として「苫小牧福島県人会」が発足し、平成11年からは苫小牧港まつりで福島の「もも」の販売を開始し、好評を得ている。

[参考文献]
  ・武家社会に生きた人々     発行年 平成3年9月15日
   ―会津藩・原氏の一系譜よりー 著者  山口光一
                  発行者 山口光一
  ・苫小牧福島県人会創立十五周年 発行年 平成15年9月7日
   記念誌「絆」         編集  苫小牧福島県人会創立十五周年記念事業委員会
                  発行  苫小牧福島県人会

 

浦河町

【西舎神社(にしちゃじんじゃ)】

 西霊社の後身。祭神は安政3年(1856)生まれの会津藩士・西忠義、天御中主神、藤波言忠の三神である。西は日高開発の恩人と言われ、道庁檜山支庁長、小樽支庁長などを歴任した。奥尻島の漁業振興にも尽力した。

 

札幌市

【琴似屯田と琴似神社】

 明治8年(1875)5月、北海道屯田兵が北の守りと拓殖、地方警備と士族の授産を進めるために、琴似屯田兵村に208戸が入植した。翌9年春には32戸が入植し、合わせて240戸が原始未開の地を開墾した。入植者は宮城県(旧亘理藩)110戸、旧会津藩(斗南藩から)55戸、北海道25戸、岩手県23戸となっている。
 現在、入植地には屯田兵の心の拠となっていた琴似神社があり、神社の境内には開拓時代の屯田兵屋が文化財として保存されている。
 また、琴似地区には「琴似屯田子孫会」(会長は宮城県入植者の子孫 小泉武義氏)があり、平成6年には、当事の子孫会会長で、現在、北海道会津会会長の新国辰男氏(会津藩士の子孫)の骨折りで琴似神社に会津藩藩祖保科正之公ゆかりの土津霊神も合祀された。
 このことで、猪苗代町の土津神社をはじめとする会津と北海道との関係が一段と親密さを増してきた。平成17年8月には、会津若松市の子ども会の児童約70人が、県外研修の一環として琴似神社を訪れ、琴似屯田兵の歴史の講義を受けた。
 北海道文書館(北海道庁旧本庁舎内)には、屯田兵として琴似に入り、初代中隊長を務めた三澤毅(みさわたけし)に関する資料が保存されている。資料は、琴似屯田に入植後3年目から、死去する年までの日記や覚書きで、屯田兵としての日々のくらしとともに、調査出張など大隊幹部としての務めを果たしていた様子が記されている。

【屯田兵屋の保存】

 現在、琴似神社の境内には、北海道有形文化財に指定されている佐藤喜一郎氏の「百四十番兵屋」が保存されている。これは、昭和39年に、道庁から多額の復元補助金を得て、琴似屯田保存会の宮坂会長が古老有志と協力し、淡雪の路上を搬送したものである。建具と建材も佐藤家が保存していたため、比較的容易に復元ができたと言われている。炉縁や角釘も明治7年の建設当時のものであり、入植当時の困苦を偲ぶことができる。
 昭和39年11月、北海道有形文化財に指定され、今日なお百三十余年前の兵屋の姿を保ち続けている。

 [参考文献]
  ・琴似屯田百年史        発行年 昭和49年10月20日
                  編集者 琴似屯田百年史編纂委員会
                  発行者 琴似屯田百年記念事業期成会
  ・琴似屯田兵村開基110年     発行年 昭和59年10月21日
   ―琴似屯田子孫会創立10周年― 編集  記念誌編集委員会
                  発行  琴似屯田子孫会
  ・県人会物語          発行年 平成2年9月27日
                  編集  札幌市教育委員会文化資料室
                  発行  札幌市

【山鼻・江別屯田】

 明治9年(1876)には、札幌郡山鼻村に240戸、1,114人が入植した。北海道では琴似に次いで二番目の兵村である。その中にも旧会津藩士50余名が含まれていた。現在、入植した地の近くには山鼻公園があり、そこにある山鼻兵村開設碑には旧藩士名が刻まれている。墓は平岸霊園にある。
 さらに、明治17年には札幌郡江別村に75戸、345人が入植しているが、その中で福島県士族は23戸であった。
 屯田兵には、家屋はもとより農具・生活用具等のほか、食糧も支給され、一般の移民と比べると手厚い保護を受けていた。しかし日中は軍隊としての訓練もあり、なれない開墾作業は必ずしもはかどらなかった。
 現在、市内にある山鼻開拓記念館には、山鼻の屯田兵村についての資料が、数多く展示されている。

【山鼻の三本松】

 山鼻屯田兵の旧会津藩士・大島八郎らが斗南藩の三本木(現青森県十和田市)から移植して郷里を偲んだと言われている。現在、山鼻地区のシンボルになっている。

【飯沼貞吉ゆかりの地碑と北海道会津会】

 飯沼貞吉は、会津若松の飯盛山で自刃した白虎隊士の中でただ一人生き残った。明治38年50歳のとき、仙台から札幌郵便局工務課長として札幌に赴任、道内の電気通信網が急速に拡充される中で、電話交換機の取り替え工事の監督、電信電話線の架設や無線電信局の建設などで道内各地を歩き、5年間にわたり北海道全道の電気通信の発展に尽くした。
 平成元年(1989年)NTTと北海道会津会の尽力で、こうした功績を讃える記念碑が居住地跡(札幌市中央区南7条西1丁目)の一角に建てられた。
 北海道会津会は、平成元年に会津出身者が集まり設立された県人会である。毎年8月23日(白虎隊の自刃した日)に、白虎隊士飯沼貞吉を偲び、「飯沼貞吉ゆかりの地碑」に慰霊のための献花を行っている。会長は琴似屯田子孫会会長でもある新国辰男氏である。

[参考文献]
  ・札幌にいた白虎隊士    発行年 平成元年8月23日
                著者  金山徳次

【札幌の木ライラックと札幌福島県人会】

 昭和30年、歌人吉井勇は札幌のライラックの花を慕って訪れ「家ごとにリラの花咲き札幌の人は楽しく生きてあるらし」と詠んだ。昭和56年、板垣武四市長の揮毫により、この歌碑が建立された。現在、大通西一丁目から西十二丁目には281本のライラックが植えられている。
 そして、大通西六丁目北側のライラックの茂みの中に浅く埋め込まれている碑がある。縦60cm、横40cmの花崗岩に「寄贈、ライラック40本 昭和34年5月30日 札幌市福島県人会」と刻まれている。

【北鳴新報社と野口雨情】

 北鳴新報は、旧会津藩士の子・伊東正三が札幌で、明治34年6月に創刊した新聞である。また、伊東は新聞記者のとき「札幌区史」を書いた。伊東の父は山鼻の屯田兵であった。
 明治40年、北鳴新報には野口雨情が記者として勤務していた。また、童謡「赤い靴」のモデルとなった子供の父で、留寿都村の入植に失敗した鈴木志郎も働いており、二人は声をかわすようになった。当時、鈴木には妻がおり、その妻「岩崎かよ」は再婚で、鈴木と結婚するとき、彼女は前夫との間に生まれた子供「岩崎きみ」を、アメリカ人宣教師チャールズ・ヒューエット夫妻の養女にした。生きるためとはいえ娘を手放した夫妻の事情は、その出会いの直後、生後7日で娘を失うこととなる雨情自身の悲しみと絡み合い、「赤い靴」が、そして「シャボン玉」が生まれたと言われている。
 現在、留寿都村には「赤い靴公園」があり、母親の像(開拓の母)、きみちゃんの像(母思像)、赤い靴の歌碑がある。

【資生館】

 明治になってつくられた学校としては北海道で最初のものである。明治4年(1871)に創立された。初代館長は旧会津藩士の大庭恭平である。札幌市立資生館小学校の前身である。

【札幌護国神社】

 明治10年(1877)の西南戦争で戦死した旧会津藩士を含む屯田兵が慰霊されている。札幌市中央区南15条西5丁目にあり、地下鉄南北線幌平橋から徒歩5分である。

 

旭川市

【米原・瑞穂(よねはら・みずほ)地区】

 東旭川の米原・瑞穂地区(通称ペーパン地区)には明治31年、伊達郡大田村の三代目村長菊田熊之助を団体長とし、近隣村(保原、上保原、堰本、伏見村等)を含めた128戸が入植した。伊達郡から入植しただけに、入植者は養蚕農家独特の家をつくった。それらは現在も保存されて旭川市の文化財となっている。
 ペーパンの人々は北海道で最初に小作農組合(農民組合)をつくり、小作農民解放運動を行った。戦後、占領軍の手で農地改革が進められたが、ペーパンの農民運動はそれ以前から行われていたという意味で非常に大きな業績として讃えられている。ペーパンには農民組合発祥の地という碑が建っている。
 現在もペーパン地区には福島県ゆかりの人が多く農業を営み、ペーパン福島県人会を組織してふるさととの交流などの活動を行っている。

【ペーパン福島踊り保存会】

 明治31年の入植以来、開拓の苦しさ、淋しさを慰めるため、郷土の踊りにその楽しさを求め、踊り継がれてきた。昭和30年代に入り、地区の人口が減少し存続が危ぶまれた。昭和40年、県人三世の一條松和氏、津田源之助氏、佐藤静雄氏の奔走により、「ペーパン福島踊り保存会」が発足し、現在保存活動を行っている。ペーパン福島踊りは、昭和42年に旭川市の郷土芸能に指定された。平成14年には、104年ぶりに郷土保原町に里帰りし、神明宮境内で披露した。

[参考文献]
  ・大田の歴史 ―大地を継ぐー  発行年 昭和62年6月
                  編集  大田の歴史編纂委員会
                  発行所 保原町大田公民館、保原町教育委員会
  ・福島団体開拓90周年記念誌    発行年 昭和62年9月3日
                  編集人 一條松和
                  発行  福島団体開拓九十周年記念祭執行委員会
  ・旭川市伝統芸能 望郷     発行年 平成14年3月
                  発行者 ペーパン福島踊り保存会

 

豊頃町

【二宮尊親と牛首別報徳会】

 二宮尊親は二宮尊徳の孫として安政2年(1855)栃木県今市市に生まれる。尊親の父尊行は慶応4年(1868)かねてより報徳仕法で親交の深かった中村藩の相馬侯に招かれ、藩政復興のため、母(尊徳の妻)、妻、尊親、延之助、とく、とともに中村(現在の相馬市)に移住した。
 明治4年、尊親は父尊行の病死により17歳で家督を相続し、明治10年相馬地方の農村立直しのため、興復社を設立した。社長には尊徳の高弟富田高慶が、副社長に尊親が就任し、開墾に従事した。
 明治29年7月29日、興復社再建のため北海道開拓を決意し、渡道調査の上、十勝の牛首別原野(現在の豊頃町)を事業地として定めた。(4,305,315坪、1,332ヘクタールを無償仮受)
 明治30年第1期入植者19戸から34年の第5期まで計157戸が入植した。その後の後継移住者、半期移住者を含め、222戸が入植し開墾にあたった。
 明治35年牛首別報徳会を設立、昭和11年に「社団法人牛首別報徳会」とし、現在に至っている。当地には二宮尊徳を祭神とする報徳二宮神社がある。現在の戸数は61戸で、会員数は85名、会長は若原敏光氏(電話01557--4-3186)である。
 尊親は明治40年、福島県中村町(現在の相馬市)に転住し、大正11年東京で病没した。享年68歳であった。

【興復社二宮農場成功のカギ】

 ○尊徳、尊行、尊親が農業指導者としての知識や経験が豊富だった。
 ○創設当初から地主・小作の関係を排し、自作農経営を目指した。
 ○土地選定にあたっては、農畜林一体の農業を目指し、大原野中央部を避け、
  丘や山に隣接した土地で、しかも肥沃で、水害の恐れがなく、交通の便が
  良いところを選定した。
 ○土地の開墾とともに精神訓練を重視した。
 ○移住民の資格 ・3年以上の農業従事者で身体強健な者
         ・20歳以上の男子で家族持ちである者
         ・品行方正処罰なしの者で身元引受人がいる者
         ・1人15円以上の携帯金がある者

【相馬市との交流】

 豊頃町は相馬市と姉妹(友好)提携の関係にあり、農協まつりには大樹町、豊頃町が相馬市に出向き、北海道の物産を販売している。
 前佐藤知事は平成7年に、帯広市で開催された連合会総会のおり、当地を訪問している。

[参考文献]
  ・二宮尊親北海道開拓      発行年 昭和54年11月30日
                  著者  渡辺利春
                  発行所 (株)龍渓書舎

 

釧路市

【旧釧路新聞社と石川啄木】

 石川啄木が小樽日報を退社し、旧釧路新聞社の三面主任として赴任した時の旧釧路新聞の社長は、福島県出身で、小樽日報の社長も務め、当時北海道議会議長をしていた白石義郎だった。
 明治41年1月19日小樽を発った啄木は1月21日釧路駅に着いた。採用は、三面主任ということであったが、実際は編集長待遇であった。白石社長が編集主任へ啄木に任すよう、厳命していたと言われている。啄木は感激し、健筆をふるい、「釧路詩壇」という詩歌の投稿欄を設けたり、「雲間寸観」を題して政治論を書き、さらには「紅筆便り」と題して花柳界の艶種記事を連載するなど、三面を華やかな記事で満載にした。啄木が担当してからの釧路新聞は体裁が一新され、ライバルの北東日報を圧倒した。
 しかし、啄木は田舎新聞の記者をしていては中央文壇から取り残されるとの焦燥感にかられ、中央文壇で創作に没頭すべく、明治41年3月20日頃から病気と称して欠勤を始め、旧釧路新聞社を退社し、東京へ戻ってしまった。

【港文館】

旧釧路新聞社の社屋は、明治41年(1908)に建てられ、道東唯一のレンガ造りであったが、その後取り壊された。
 「港文館」は、旧釧路新聞社を平成5年に復原したものであるが、旧釧路新聞社はこの港文館から200メートル離れた、大町2-2-6、現在のガソリンスタンドのところにあったとされている。また、旧釧路新聞の様子は、石川啄木の小説「菊地君」の中に描かれている。

 

厚岸町

【国泰寺】

 享和2年(1802)徳川家斉の開基で、初代文翁和尚が直任された臨済宗(南禅寺派)の寺院である。文化元年(1805)には、江戸幕府が寺社奉行に命じて、蝦夷地で死亡した武士や商人たちの供養と仏教を広めるため、伊達の善光寺、様似の等樹院とともに、蝦夷三官寺のひとつに指定した。このため、山門には葵の紋が残っている。国泰寺は、現在の十勝支庁管内から根室支庁管内に至る地域とクナシリ、エトロフまでを布教範囲としていた。
 北方警備に赴任する会津藩士や家族たちが国泰寺に立ち寄っており、その記録が残されている。

 

別海町

【野付半島の会津藩士の墓】

 安政6年(1859)別海地方の西別川の北川が会津藩の領地となる。
 別海町の戸田則子氏の祖父が、北方警備に派遣されていた会津藩士のとみられる墓を野付半島の突端で発見し、以来戸田氏宅で慰霊していた。
 一方、別海町福島県人会は戸田氏達とは別に8月に慰霊祭を行ってきたが、戸田氏が墓石に浮かび上がった会津藩士を確認した7月2日に合同で慰霊祭を行うようになった。しかしながら、その後、野付半島先端が自然公園に指定され、エゾカンゾウ等が密生して現地まで行くことが極めて困難になったため、平成13年以降、慰霊祭は行われていない。

[参考文献]
    ・蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ   発行年 昭和60年3月31日
      御陣屋御造営日記       発行者 標津町郷土研究会
      (出張仰付~蝦夷地戸切地着到)

【キラク先人に捧げる鎮魂碑】

 幕末の頃、野付半島突端に通行屋があり、周辺に「キラク」という集落があった。この集落に北方警備に散った防人たちの墓が見つかっている。その鎮魂の歌碑で、昭和59年、荒沢勝太郎氏らが建立した。

【酪農の先駆者】

 明治43年に第1期拓殖計画が発足し、北海道の道路、港湾、河川などの改修とともに、国有林未開発地処分による拓殖を開始したが、この開拓には福島県からの入植者はいない。
 第1期に続き、国の食糧確保政策として、大正15年から第2拓殖計画が発足し、昭和2年以降福島県からも多くの方が入植し、たび重なる冷害など多くの苦労を重ねながら酪農経営を確立し、現在の別海町の繁栄の基礎をつくった。なお、昭和4年の別海町上春別地区の入植者は92名となっている。
 また、昭和20年「緊急開拓事業実施要領」が閣議決定され、それにより20年から24年までの入植者増と33年の入植打ち切りまでの漸増の時期を迎え、昭和20年代は福島県から西春別農協管内へ44戸が入植した。なお、この管内の拓進部落に、昭和53年、開拓30周年を記念して「開拓の碑」が建立された。

【農業短期大学校の「先進農家等留学研修生」受入】

 平成 17年~20年までの間、福島県農業総合センター農業短期大学校の「先進地農家等留学研修」の学生を、別海町福島県人会会員の酪農家が受け入れ、本県農業の担い手育成に貢献した。

[参考文献]
  ・別海町百年史        発行年 昭和53年10月7日
                 編集  別海町百年史編纂委員会
                 発行者 別海町
  ・上春別移住者名簿      発行年 昭和4年9月
                 発行者 北海道庁移住者上春別世話所

 

北見市

【ハッカ(薄荷)栽培の先駆者】

 チューインガム、歯磨き粉、清涼飲料水などの原料であるハッカ(薄荷)は、良質な芳香性があり、知らない人はいないほどなじみ深いものである。
 このハッカが北海道で自生していることを発見し、その栽培にも成功し、やがて世界一の生産地となる北見地方での栽培に、多大なる貢献をしたのが会津若松生まれの渡部精司であった。精司は文久2年(1862)会津若松で、薬種御用商人の子として生まれた。明治15年(1882)北海道に渡り、苦難の末ハッカ栽培に成功し、北見地方での栽培の端緒を開いた。
 北見のハッカは、昭和14年頃には作付面積2万ヘクタールで世界市場の70%を占めたが、その後、安価な海外産の進出や合成ハッカの出現により衰退の一途をたどった。
 現在、北見市には、ホクレン北見薄荷工場の旧事務所を利用して開館した「薄荷記念館」、「薄荷蒸留館」がある。

 

網走市

【大東流合気武道】

 会津藩家老・西郷頼母が、会津藩士・武田惣角(たけだそうかく)に伝授した流派の武術である。惣角の子・時宗氏が、網走市に大東館道場を開設して教授した。その後、大東流合気柔術はいくつかの会派に分かれ、網走市の他にも、北見市や旭川市などに広がっていった。現在、網走市には、日本大東流合気武道本部がある。

 

美深町

【美深町への入植】

 明治36年、沢石村(現在の三春町)から佐久間千代三郎氏らが、下名寄村恩根内四線(現在の西里)に入植した。紋穂内神社に佐久間千代三郎の記念碑がある。また、斑渓地区では、明治40年に福島県から30戸が移住し、本格的な開拓が進められたと伝えられている。
 平成5年に、佐久間昌美氏が中心となって福島県人会設立に乗り出し、調査書を集めたが、設立までこぎつけず現在に至っている。

 

稚内市・利尻町・利尻富士町・羽幌町

【宗谷における会津藩の北方警備】

 18世紀後半、列強の日本近海への進出、とりわけ、ロシアの南下が目立つようになると、幕府の蝦夷地への関心が高まり、ついに享和2年(1802)幕府は松前藩を転封し、蝦夷地全島を直轄地とした。そして、北方警備に従事させるため、文化4年(1807)から東北各藩の藩士をこの地に派遣した。
 まず、文化4年に津軽藩士230名が派遣され、宗谷において北方警備に従事したが、水腫病等により多数の死者を出したため、文化5年(1808)4月17日、内藤源助、梶原平馬率いる587人の会津藩兵と交代した。梶原平馬はこのうち241人を率いて利尻島警衛に向かった。また、宗谷上陸隊とは別に家老北原采女が706人を率いて樺太に直航、久春古丹に陣営を構築し、樺太警備に従事した。
 その後、安政2年(1855)から慶応2年(1866)にかけては秋田藩士が派遣された。

【北方警備に従事した会津藩士の墓】

 北方警備に従事した藩士達は、自然の猛威の中で水腫病等に倒れていった。現在、宗谷岬に13基の藩士の墓があるが、うち3基は会津藩士の墓である。ほかに、利尻島に8基、焼尻島に2基、会津藩士の墓がある。これら藩士の墓はいずれも所在している市町の文化財に指定されており、また、それぞれ地元の人たちによって毎年供養されている。稚内市宗谷公園にある旧藩士の墓では、稚内福島県人会も加わり、毎年9月に慰霊祭を行っている。
 平成20年には、会津藩の北方警備から200年を記念して、会津若松市から藩士の墓を巡る親善訪問事業「蝦夷地警備に殉じた会津藩士を偲ぶ旅」による訪問団約100名が墓参に訪れた。

(利尻島の利尻町・利尻富士町には3カ所8基の会津藩士の墓が残っている。)
  ・関場友吉春温   文化5年(1808)7月6日  (利尻島鴛泊本泊)
  ・山田重佐久    文化5年7月10日      (利尻島沓形字種富町)
  ・諏訪幾之進光尚  文化5年7月8日      (    〃    )
(稚内市宗谷には3基の会津藩士の墓が残っている。)
  ・要久右衛門    文化5年6月
  ・原田喜十郎記里  文化5年7月8日
  ・平田八十八保実  文化5年7月10日

【会津藩陣屋の跡】

文化5年(1808)の樺太警備では、本営を樺太に置き、分営を宗谷(稚内市)、利尻、松前に置いた。
 現在、宗谷分営の跡が、稚内市宗谷にあり、稚内市指定史跡となっている。

 [参考文献]
  ・稚内百年史         発行年 昭和53年10月30日
                 編集者 稚内市百年史編纂委員会
                 発行所 稚内市
  ・稚内発祥の地 宗谷三百年誌 発行年 昭和59年8月6日
                 編集者 宗谷三百年誌編集委員会
                 発行者 宗谷三百年祭実行委員

 

標津町・斜里町・紋別市

【会津藩の蝦夷地分領支配】

 幕府はロシアの南下政策に対する蝦夷地警備に従事させるため、安政6年(1859)に会津、仙台、秋田、庄内の各藩に天領を含めた蝦夷地を分割し、領地として与えた。
 会津藩は標津、斜里、紋別を藩領とし、幕府箱館奉行が支配する網走領地も含めてその警備にあたった。
 会津藩は藩士等を現地に派遣し、シベツのホニコイ(標津町)に本営陣屋を、シャリ(斜里)・モンベツ(紋別)などに出張陣屋を設け、多数の藩士をこの地に送り経営に当たったが、本藩の財政事情により、開拓の成果はほとんど挙がらなかった。斜里、紋別で慶応3年(1867)にはアイヌ人への支払不能金が1,000両以上あったと言われている。

【會津藩士の墓】

標津町には野付半島の付け根のところに2基の会津藩士の墓が残されている。
 紋別市では明治末期に、弁天岬付近で墓石が発見され、その後移され、現在は市内南が丘町報恩寺境内に3基の会津藩士の墓が安置されている。紋別における和人の墓としては最初のものである。

(紋別市に残っている墓)
   ・蓮沼左力潔顕   文久元年(1861年)辛酉三月二十八日
   ・樋口覚次郎光啓 文久二年(1862年)壬戍八月十三日
   ・佐藤千代松啓美 文久二年(1862年)壬戍四月二十六日

【陣屋跡】

 安政6年(1859)からの会津藩の蝦夷地経営の本営陣屋を標津町に置いた。現在、会津藩ホニコイ陣屋跡があり、標津町指定文化財になっている。
 斜里町にも陣屋が置かれ、町立図書館下に運上屋、会所があったので、この辺が会津藩斜里陣屋跡であったと思われる。
 紋別市の陣屋は、明治36年(1903)に焼失した。市内弁天町一丁目元寺崎竹輪工場付近に会津藩紋別陣屋はあった。

【八大龍王社(はちだいりゅうおうしゃ)】

 標津町にあり、海の神様を祀っている。社の中に石碑があり、表には「八大龍王」、側面には「漁舎開」、裏面には「旧会津藩士佐々木重藏長男 佐々木為吉建立 明治廿二年八月」とある。

【龍雲寺(りゅううんじ)】

 標津町にあり、会津の日本画家・野出蕉雨の釈迦涅槃(しゃかねはん)図や牡丹の絵などがある。釈迦涅槃図は、明治24年(1891)、吉田嘉之助、矢島鉄吉、加須屋静治、宮島源太郎の四名が龍雲寺に寄贈したものである。

[参考文献]
  ・蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ 発行年 昭和60年3月31日
   御陣屋御造営日記       発行者 標津町郷土研究会
   (出張仰付~蝦夷地戸切地着到)
  ・蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ 発行年 昭和61年3月31日
   御陣屋御造営日記       発行者 標津町郷土研究会
   (藤野喜兵衛の切組御長屋一棟献上~陣屋材切組皆出来上り)

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