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浜通り17(富岡町):復興を支える人のつながり(ハマナカアイヅ)

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年3月13日更新

復興を支える 人のつながり

 311が近づくと、必ずどこかの新聞で、どこかのニュースで、
 どこかのラジオで福島に関する情報に触れることになります。
311

 あの日から6年が経ちました。
 福島県の復興に関する光の部分もあれば、影(かげ)の部分もあります。
 光の部分に注目すれば、楽観的な気持ちにつながります。
 影の部分に目を向けると、悲観的な気持ちになりかねません。

 「震災の体験や自分の意見を伝えることによって、
 人間関係が壊れることになるかもしれません。
 あくまで一般人の観点からということで、間違えたりすることもあるかもしれません。
 独りよがりかもしれません。
 それでも、自分の思いを伝えていきたいです。」

 東日本大震災6周年の翌日、福島県観光創造センター交流棟「コミュタン福島」で行われたイベント
 「富岡町3.11を語る会 語り人お話し会」で、
 NPO法人富岡町3.11を語る会の代表、青木淑子さんがこのように語りました。
口演会の案内

 富岡高校の校長に勤めていた青木さんは、
 震災時富岡町町民がおおよそ3ヶ月間郡山市のビッグパレットふくしまに避難していた時のボランティア体験をきっかけに、
 富岡町社会福祉協議会のアドバイザーとして、
 町民が避難している郡山市の仮設住宅で「おだがいさまセンター」を設立しました。
 そして2012年夏頃から、口演の依頼が殺到するようになったと言います。

 「海外からの依頼も来るようになりました。最初は、東南アジアから。
 でもね、郡山の線量は高いから、口演先はみんな他の市町村で行うように頼まれました。」
 青木さんは振り返ました。

 偶然なことに、2012年の夏頃に、中国の大学生を連れて福島を視察した際、おだがいさまセンターで口演を聞きました。
 震災後はじめて福島に入り、テレビなど大きく報道していた仮設住宅を訪問した経験は、
 のちに国際交流員を希望する大きなきっかけになりました。

 「3.11の意味は、決してこの日が近づく度に思い出させることではありません。
 ずっと、あの日と向き合って、そして考えていって、迎えることです。
 そして、当事者ではない方に
 『自分の身にもしこのようなことが起きたら』と考えさせることです。」
 と、青木さんが力強く言いました。
口演会にて

 富岡町を襲った津波は21.1メートルと言われています。
 津波被害を受けた市町村の中でも、最大規模でした。
 震災、そして津波による直接死者は24名。そして、震災関連死者はなんと290名以上です。
 つまり、10倍もの方は長い避難生活の中で亡くなられました。

 「私はなるべく口演のなかで「もし」という言葉を使わないようにしています。
 でもね、言ってはいけないですけど、それでもどうしても考えてしまいます。
 『もし、地震と津波だけならば、今頃富岡町はどうなっているのか』ということを…..」
 青木さんの言葉に、思わず目頭が熱くなりました。 

 富岡町民が川内村に避難時長い車の列が記録された一枚の写真があります。
 「あなたなら、この写真を見てどう思いますか?」
 と、青木さんが来場者に問いかけてきました。
 「海外の方はね、よく『日本人はこんな大変の時でも整然としていてすごいですね』と褒めてくれます。」
 ――正直、自分も写真を見て真っ先にそう思いました。
写真が持つ本当の意味とは

 「でもね、当時は諸事情によって、このようにならざるを得ませんでした。
 朝起きたら、内閣府から全町6300世帯に対して避難指示を出したって告げられました。
 ほとんどの人が、着の身着のままで避難しました。
 国道6号は北側に原発があって爆発があったし、南側のいわき市あたりで浸水しました。
 もう一本の県道35号に地崩れが発生して通れませんでした。
 当時は避難ルートは、追い越しも引き返すもできない、この道幅狭い一本道しか残されていませんでした。」
富岡町ルート
 ――福島県で暮らすようになり、道路状況に少し詳しくなった今、はじめてその写真を持つ意味に気づきました。
 ――無声の緊迫感が、じわじわと伝わってきています。冷や汗を掻いてしまいました。

 「この写真が持つ、もうひとつの意味は、事故時の情報伝達が遅れていたことです。
 避難と言われても、99.9%の町民はすぐに家に帰ってこられると信じていました。
 しかし、現実は6年もの間、誰一人も『本当の意味での帰郷』が果たせないままでした。
 この車の列を見て、一台の車に詰め込めるものについて考えてごらん。
 6年も帰られないと知っていたら、もっと大事なものを載せますよね。
 でも、『本当に大事なもの』は、いくら載せられますか?
 飼っていた家畜を、田んぼを、友達も、仕事も、載せることができるというですか?」

 会場で、すすり泣きの声が聞こえました
 富岡町町民の方なのかどうかはわかりません。
 でもその人の気持はわかります。
 本当に大事なものを失ってしまった富岡町の町民の悔しさも。

 青木さんの語りは続きます。
 「川内村で一時避難した時の写真です。人口は3200人しかいなかった川内村ですが、村民の善意でとてもよくしてくれました。
 しかし、ここで避難できた富岡町民は一部でした。
 他の双葉郡の町村からも避難者が来たからです。
 ここで受け入れられなかった人は田村市、三春町、郡山市….次から次の町へと行きました。」
 震災当時、国道49号は大渋滞し、避難者の車の列は新潟まで続いたと言います。
川内村の避難所

 「避難の途中、富岡町の町民は『災害が起きた時一番大切なものは何か』という現実に突きつけられました。
 着の身着のままで避難していた町民に対して、避難する車の交通整理にあたる、半面マスクに防護服という格好の警官たちがいました。
 驚いて尋ねると、『知らないんですか?!放射能が漏れているんですよ!!』と答えました。
 ……
 川内村の避難所では、子供だけにヨウ素剤が配られましてね、当時は誰も中身について知らされませんでした。
 当時、知るべき情報は庶民レベルに伝達できませんした。」
 確かに、震災当時原発事故の速報など、被災地を除く日本全国、そして世界各国で連日放送されました。
 しかし一番肝心な避難者に至っては、自分が置かれている状況が分からず、
 ただただみんなと一緒に行動している人は決して少なくはありません。

 この情報社会で取り残される人は「情報弱者(情弱)」と揶揄される風調はインターネットなどで時々目の当たりにしますが、自分はこの言葉が大嫌いです。
 いわゆる「情報弱者」を語る人の多くは、相手に対して少なからず優越感を持っています。
 これは被災者、特に避難を余儀なくされる人たちに対しては極めて失礼だと思います。
 災害時、如何に正しい情報を一番必要とする人に確実に届けることこそ、一番必要大切なことです。 

 「避難所でも、交流の場を提供することで自治が生まれます。
 しかし、烏合の衆ではそれが成り立ちません。リーダーが必要です。
 日頃からリーダーシップを担う人材の育成が大切です。」
 口演の中で、青木さんはさらに震災時、リーダーシップを発揮できる人材の重要性を指摘しました。
 ビッグパレットふくしまの場合、震災当初限りある支援物資の分配や、
 全国から集めるボランティア団体の指示などといった様々な場面では指揮者が必要とされていました。
 幸い、「おだがいさまセンター」のスタッフや避難者の有志たち、県災害復興支援チームの協力によって、
 たくさんの困難を乗り越えられました。
BPFの避難状況

 口演の最後、富岡町出身の語り人の言葉が深く心に刻まれました。
 「私たちにとって、『帰還』という言葉は重いです。
 どちらを選んでも、その選択肢自体が残酷だからです。
 『帰還』すると、除染や獣害、復興の遅れなどといった不安に直面しなればなりません。
 『帰還しない』人でも、おそらく最後まで『ふるさとを捨てた』という罪悪感に囚われるかもしれません。」

 2017年4月1日より、帰還困難区域を除く富岡町における避難指示が解除されることが先日正式に発表されました。
 「待ちに待った日だ」と言う声もあれば、「時期尚早」と一蹴する人もいます。
 これからも、「光」と「影」は富岡町に同時存在し続けると思います。
 自分ができることは、これまで同様に富岡町に訪ねて、
 これまで以上に富岡町のことを発信していきます。
伝えいたい、もっと

 安易に「復興」を賛美しないで、
 実行動で「復興」を応援します。
 僕はこれからも、富岡町民のつながりを大切にしていきたいと思います。