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相双の『農村とため池』 歴史探訪ルート

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年2月3日更新

歴史的にいわれのあるため池や、農業用水利施設などをご紹介します。


宗兵衛堤ほか

宗兵衛堤の画像所在地相馬市富沢
築造年不明
型式アースダム
堤高5.4メートル
貯水量7,300立方メートル

 報徳仕法で築造された堤。宮沢地区の水田を潤すために宗兵衛、又右衛門、土井、新堤、堀釜の5つのため池を水路で結び、それぞれが満水になるように工夫されています。
 池の側に宗兵衛堤の報徳碑が建立されています。


中富ため池

中富ため池の画像所在地相馬市赤木
築造年江戸時代以前
型式アースダム(均一型)
堤高10.5メートル
貯水量641,000立方メートル

 相馬市で2番目に大きいため池で、池の上にけやきづくりの取水塔があります。
 この取水塔は当時の優れた建築手法で作られ、100年以上にわたって水を供給し、地域の水神となっています。
 止水栓は数個のくさびを打ち込むことにより上下する仕組みで、くさびを打ち込む音は周囲4kmにも達したといわれ、盗水防止にもなったそうです。


唐神堤

唐神堤の画像所在地南相馬市鹿島区横手
築造年江戸時代以前
型式アースダム(均一型)
堤高9.3メートル
貯水量1,002,000立方メートル

 相馬地方三つつみのうち最大のつつみで、堤長220メートル、周囲約12kmです。
 江戸時代前期の寛文年間に築造、その後安政3年に大雨で堤防が決壊しました。
 その改修には荒専八があたり、真野川の堰も改修し七千石用水を設け、その水路から池にかけ込むように工事を実施したため、貯水量が100万トンを超える相馬地方随一のつつみとなったのです。


茗荷沢ため池

茗荷沢ため池の画像所在地双葉町山田
築造年江戸時代以前
型式アースダム(均一型)
堤高14.0メートル
貯水量149,000立方メートル

 堤体の一部が県道いわき浪江線の道路敷になっています。
 築造年は不明ですが、江戸時代後期の2月頃、豪雨により堤体が決壊しました。
 急きょ、藩命により村々から人を集めて復旧工事をしましたが、またもや完成目前に大雨が襲い決壊してしまいました。
 このため村人たちは、誰言うことなく「悪霊の仕業でこれを鎮めるには人身御供以外にはない」と伝聞されました。これを聞いた百姓の一人が人柱を申し出、自らその犠牲になりました。

 以後工事が順調に進み、無事田植えを終えることが出来ました。
 後日藩公より供養料の下賜があり、永くその霊を弔われたと伝えられています。
 記碑がため池より離れた場所にひっそりと建てられています。


東羽黒つつみ

東羽黒つつみの画像所在地双葉町山田
築造年江戸時代以前
型式アースダム(均一型)
堤高13.7メートル
貯水量383,000立方メートル

 相馬地方の三つつみの一つで、堤長が156メートルあります。
 安政2年に報徳仕法により改修され、貯水量が以前の2倍になりました。このときの工事の経過が双葉町史に載っています。
 また、このつつみは九十九沢もあるといわれ、周囲一面は松の大木で昼も暗い森で、ここに大蛇が住んでいたという民話が残っています。
 現在は改修され、大木もなく自動車も入れるようになり、大蛇の話も忘れられるようになりました。


二つ沼ため池

二つ沼ため池所在地広野町下北迫
築造年不明
型式アースダム(均一型)
堤高4.0メートル
貯水量6,500立方メートル

 広野町の国道6号線沿いの二つ沼総合公園の看板が目印です。
 この池は万葉集14巻の東歌に歌われた池です。また、戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟軍と芸州・長州藩などの西軍との間で激しい攻防戦が展開された場所です。

 国道の西にある沼辺には「沼二つ 通は鳥が巣 あが心 二行いくなもと なよ思はりそね」と刻まれた万葉集句碑と、「戊辰戦争二つ沼古戦場」の石碑が建っています。

 現在沼の一部は公園の一角にあり、入園者の憩いの場となっています。


西の沢ため池

西の沢ため池の画像所在地広野町折木
築造年不明
型式アースダム(均一型)
堤高6.5メートル
貯水量60,000立方メートル

 県道いわき浪江線のいわき市と広野町の境にあるため池です。
 この池は今から300年前に作られた亀ヶ崎新田に水を供給するために作られました。

 新田の場所は高台にあるため水利が悪く、困窮していました。
 磐城平藩主の内藤義泰公がこの地を巡視された折、この地にため池が必要であることを痛感され、寛文元年に代官の今村氏に命じて築かせたと伝えられています。

 亀ヶ崎の人々はこの内藤公の徳を感じ、長くその恩恵を子孫に伝えるために、地区の亀山神社に石碑を建立しました。



風穴堰(南相馬市鹿島区)

風穴堰の画像

 南相馬市の真野川の風穴の湯手前、県道大芦鹿島線そばにあります。
 堰は、自然の大きな石を基盤にして作られたもので、掛け入れ部がコンクリートで築造されています。

 白鳥が飛来する新旧横峯のため池及び醴迫ため池の掛け入れ堰です。水路の長さは約3kmほどあります。



七千石堰(南相馬市鹿島区)

七千石堰の画像

 別名御山堰のこの堰は、真野川左岸から取水して、幅50メートル、高さ1.5メートルで現在はコンクリート堰となっています。

 もともと御山及び白坂の水田に利用するために延宝年間に設けられた小さな堰でした。
 その後安政年間に、北郷代官の荒専八が堰の改修計画を立て、唐神、石の宮及び藤金沢の各ため池に掛け入れできるように、それまでの水路を一段高い所に通し、自然落差を利用したため池となりました。

 その結果、多くの水田を潤すことになり、七千石(約1万8千俵)も米が取れるといわれ、七千石堰と名付けられました。



南右田神社(南相馬市鹿島区)

南右田神社の画像

 報徳仕法の実践者、荒専八を祭神として、境内に「報徳荒専八翁」の碑が建っています。



萱浜用水路(南相馬市原町区)

萱浜用水路の画像

 新田川から取水し、萱浜地区で利用されている水路です。
 長さ4キロメートルで多くがトンネル部になっており、トンネルの途中に管理用の開口部があります。
 トンネルの出口付近に国指定史跡の桜井古墳があります。



酒田のから池(浪江町)

酒田のから池

 相馬地方三つつみの一つでしたが、現在は水田になっており、ため池の名残はかすかに残っているだけです。



立野用水路(浪江町)

立野用水路の画像

 浪江町の立野にある水路で、立野地区の水田200ヘクタールを潤しています。
 享保年間に築造されましたが、県営かんがい排水事業の工事により景色が当時のものから異なるものとなりました。
 水利碑が立野地区の神社に建立されています。



 小高疎水

小高疎水の画像

 取水口は請戸川の室原地内で、文久3年に完成しました。
 浪江町から南相馬市小高区飯崎までの水路で、長さが約18キロメートルと非常に長く、曲がりくねった隧道、サイホンなどがあり難工事だったようです。
 取水口近くに小高疎水碑が建っています。疎水の途中から大柿ダムの水を流し、現在も利用されています。



 田尻江(浪江町)

田尻江の画像

 長さ約9キロメートルで、取水口は浪江町小丸の女滝にあり、荒専八が設計をし明治元年に着工しました。
 当時の状況を記録した水利碑が浪江町末森の香取神社参道入り口に建立されています。

 現在は、平成元年に大柿ダムの完成により取水口は利用されていませんが、下流川はダムの水をつなぐ水路になっています。
 また、田尻江の沿革碑が浪江町田尻の集会所に建っています。



助宗堤(大熊町)

助宗堤の画像

 この池は相馬藩主の命により、新妻助宗が工事の責任者として作ったもので、上下二つの池からなっています。

 この堤の出来上がりを見に来た藩の吟味役に、「この堤の水は海に注ぐためにつくったのか」と海近くに位置した堤についてしかられ、助宗は一言の弁解もすることなく堤の丘の上で切腹して果てました。

 その後堤の恩恵を受けた里の人々は、切腹した丘に小さな祠をたて助宗が死んだ碑を祭日に定め、毎年お供え物を添えて霊を慰めています。



浅見川用水路(広野町)

浅見川用水路の画像

 浅見川の小松堰から取水し、浅見川沿いの水田に水を供給しています。別名「稲荷江筋」と呼ばれています。

 昔、水路をつくっても水が流れない場所があり、村人たちが困って祈祷師に稲荷神を拝んでもらったところ、白狐が現れました。
 この白狐は、「夜、鳴きながら血を垂らしていくから、その血の垂れている通りに水路を作るがよい。また勾配は夜に狐火をともすから、それを目当てに測るがよい。」と告げたそうです。

 お告げの通りにに工事を進めると、水が流れるようになったことから、稲荷江筋の別名が残るようになりました。
 現在はコンクリート水路になっており、風景は昔のものとは異なっています。