浜通り07(いわき市):それぞれの復興(ハマナカアイヅ)
前出の記事で訪れたいわき市・二見ヶ浦海岸。
震災からまる3年が経ち、穏やかな海面を眺めると、とても津波襲来時の状況を想像することができませんでした。
しかし、一歩下がると、やはり以前JETツアーで訪れた久之浜地区と同様に、津波の傷跡が随所見られています。
海岸沿いの民宿で一泊することになりました。
お手伝いさんから、たくさんのお話を聞かせて頂きました――
2011年3月11日、震災発生後間もなく避難勧告が発令されました。
即時避難の決断に加えて、周囲の地形にも助けられ、二見ヶ浦海岸近くの住民に一人も犠牲者が出ていませんでした。
私たちが泊まった民宿と歩道一本しか離れていない建物は全壊し、今は礎のみ残されました。不幸中の幸いとも言うべきですか。
当時民宿の中でも浸水され、津波が引いてからも泥掃除の作業で3ケ月も掛かっていたらしいです。
震災後半年ほどが経つと、民宿の営業は再開し、二見ヶ浦海岸も整備されつつあり、私たちが訪れた時の景色まで回復できました。
どんなに深い傷でも、時間が経つにつれ、癒していくと思っていました。
「復興」は相応の時間が必要で、元の景色に戻すことが最善な策だと思っていました。
「実はうちの民宿も、もっていれば今年いっぱいの営業です。」
すっかり仲良くなった民宿のお手伝いさんから不意にこぼれた話に、驚かずにはいられませんでした。
「実はここの海岸は、復興事業で10メートルの防波堤を作る予定なの。加えて、ここの建物を含めて、近所の土地はみんな引っ越して、防風林を植えるの。」
私たちは、返す言葉のひとつも見つかりませんでした。
「千載一遇の津波とは言われるが、いつか再発するかもしれない。やっぱり、県民の命を守ることが一番だよね」
彼女は地域めぐりの復興事業に対して理解を示しつつも、
「ここの景色はもうすぐ見られないのね。あとサーファーたちも他所に行くしかないね」
と、二見ヶ浦を愛してやまない一人として、残念そうに語りました。
住民の生活を取り戻す「復興」。
「大局観」ゆえの、一部の「犠牲」を余儀なくされる「復興」――
それぞれの「復興」が織り成す、被災地再建時の葛藤。
それは、「復興」という使命の重みであり、
それを担う者すべての崇高な意志でもあります。
――福島県の復興事業に関わるすべての方々に、心より敬意を払います。
(投稿者:徐)