尾瀬、自然保護の歴史(前編)「ダム、道路開発から尾瀬を護る」

尾瀬、自然保護の歴史【前編】
ダム、道路開発から尾瀬を護る

尾瀬にはこの美しい自然のほかに、もうひとつ誇りがあります。それは日本で最初に自然保護運動を起こし、百年以上にわたってこの自然を護り通してきた歴史です。前編の今回は、長蔵小屋の小屋主3代を中心に、ダム・道路開発に立ち向かった保護運動についてご紹介します。

自然を残すか? 近代化を取るか?

写真

尾瀬のダム建設計画は100年以上前までさかのぼります。尾瀬は日本でも有数の湿地帯であり、本来は寒帯や亜寒帯にしか自生しない高山植物が生える独自の生態系があるため、生物学的に貴重な立地と当時から見なされていました。しかし、建設計画が持ち上がった時には開発が最優先され、「尾瀬の自然を残すよりも、尾瀬を開発したほうが将来の日本のためである」という意見が、当時の政治行政の場で多数を占めていました。

写真

1910年代の終わり頃から、尾瀬ヶ原と尾瀬沼を水力発電用の貯水池にする計画が建てられました。計画によると尾瀬ヶ原は湿原全部と森林の一部が水没し、尾瀬沼は完全に水没することになっていました。

写真

尾瀬ヶ原ダム計画に反対し、尾瀬へ永住

写真

そこで最初に反対の声を上げたのが、平野長蔵(1870年-1930年)です。麓の檜枝岐村出身で、燧ヶ岳を開山した人です。1910年代終わり頃に具体的なダム計画が持ち上がると、単身で反対運動を行い、1922年には自分の建てた「長蔵小屋」へ永住してダム計画に抵抗の意思を固めます。翌1923年に単身で上京し、長蔵は当時の加藤友三郎内閣の内務大臣であった水野錬太郎に尾瀬沼と尾瀬ヶ原の貯水池計画を見直す嘆願書を提出しました。
長い冬のあいだ、数メートルもの雪に閉ざされる暮らしは、食料の確保が難しく想像を絶する赤貧の生活だったようです。
長蔵はそうまでして尾瀬の自然を後世まで残すことを願っていました。それは長蔵の次の言葉に尽きるかもしれません。

「この地をして永遠に静寂を失わしむることなくして独想ー思索ー瞑想する地たらしめよ青年よ赤き心よ風光明媚なるこの湖畔に大自然の下に集りてこの大自然の美を享受せよ」

戦後、再燃するダム計画

日中戦争勃発後の1938年に国家電力管理法が成立し、当時の逓信省から尾瀬ヶ原発電計画が発表されます。太平洋戦争後においても、ふたたびダム建設計画は進展する状況でした。
長蔵の死後、息子の平野長英(1903年-1988年)も反対の意志を唱えます。これを文化人や登山家が支援し、尾瀬の自然保護運動、さらには日本の自然保護運動へと発展しました。

写真

平野長英。若くして長蔵小屋を継ぎ、約50年に渡って尾瀬の自然保護に尽力。川崎隆章との共著「尾瀬」や妻靖子との歌集「尾瀬沼のほとり」など文芸面でも尾瀬に貢献。

写真

写真

自然保護の世論形成

写真

その中心となったのが「尾瀬の父」と称された武田久吉(1883年 -1972年)です。植物学者であり登山家だった武田は、尾瀬の紀行文をさまざな紙面で掲載し、尾瀬を世に紹介するなど大きな貢献をしています。1948年の尾瀬ヶ原巨大ダム計画にも、反対の調査報告書を提出するなど、尾瀬の自然保護に対する思いは深いものでした。
やがて武田たちの努力が実を結び、ダム建設反対の世論が形成されます。高度経済成長の時代の交通網の整備によって、人々が尾瀬をこの眼で見られるようになったのも一因でした。こうして人々は自然保護の重要性に気づいていったのです。

写真

公益財団法人尾瀬保護財団の宇野翔太郎主事は、「尾瀬のダム建設計画に危機感を抱いた知識人たちが1949年に尾瀬保存期成同盟をつくりました。この結成は日本の自然保護の歴史にとって大きな出来事ですが、じつは尾瀬が発祥なんですね。当時は“苔か電気か”という論争がありました。食うや食わずの時代に自然保護を理解してもらうのは大変なことだったでしょう」と、当時の世論形成の難しさを指摘しています。

写真

車道建設の反対運動

尾瀬の開発計画はダムだけではありませんでした。
群馬県片品村から尾瀬沼湖畔を通って福島県檜枝岐村に至る道は沼田街道といわれ、古くから会津と沼田を結ぶ重要な街道でした。昭和30年代からモータリゼーションが起こると、道路の建設が始まりましたが、平野長蔵の孫、平野長靖(1935年-1971年)を中心とした人々の強い反対により昭和46年に車道建設が断念されました。
現在、沖縄県を除いて隣接都道府県と車道が唯一繋がっていないのは、福島県と群馬県です。もちろん、それは長靖たちが護り抜いた尾瀬の自然があるからです。

写真

平野長靖は、京大卒業後、北海道新聞に就職するも弟の死によって27歳で長蔵小屋三代目を継ぐ。道路建設反対運動においては、環境庁初代長官大石武一の自宅へ赴き直訴して道路建設白紙に大きく貢献。しかし、正式な計画廃止を知ることなく、36歳の若さで冬の尾瀬山中で凍死する。

写真

写真

写真

尾瀬の護り人たちの想いを受け継ぐ

写真

「尾瀬が日本の自然保護発祥の地と呼ばれているのは、ダム建設計画、道路開発計画と戦うために多くの人たちが行動を起こし世論を動かしてきたこと。そして他の地域の自然開発に影響を与えてきた歴史があるからです」と、尾瀬保護財団の宇野主事は言及します。
では彼らの原動力はなんだったのでしょうか?
その答えについて宇野主事は、「平野長蔵さん、長英さん、長靖さん、そして武田久吉先生。彼らは、つまるところ“尾瀬が好き” という気持ちが強かったんです」と、彼らの残した言葉や書籍をひもといた上でシンプルに表現しました。

「日帰りでも、時間が許すなら2,3日くらい尾瀬の住人になっ
もっと多くの人に尾瀬を自然を感じてほしい」と宇野主事。
なるほど。尾瀬を愛する人たちが増えるということは、自然を護りたい人が増えることにつながるわけですね。
尾瀬についてはさまざまな書籍が出版されています。先入観なく尾瀬に出会うのもよいですが、今回紹介した尾瀬の護り人たちの想いに触れて尾瀬に訪れるのもまた感慨深いものになるでしょう。

写真

pagetop