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田代山開山史

山岳国の日本にはさまざまな山がありますが、田代山のような山容の山は二つとないでしょう。山頂に大きく広がる湿原の広さは約25ha、東京ドーム5.3個分。尾瀬国立公園の特別保護地区に指定された尾瀬を代表する山の一つです。
今回はシーズン最終盤の田代山を登山しながら、開山の歴史についてご紹介します。

広大な山地湿原を持つ田代山

写真麓の南会津町舘岩の湯ノ花地区。
空の彼方に田代山の山頂が見えます。

シーズンオフとなった11月初頭。紅葉の見頃を迎えた山あいの中、湯ノ岐川を遡上するように県道350号を南下し、栃木県との県境にある猿倉登山口を目指しました。
新型コロナウイルス感染症が流行する以前、田代山は1シーズン5千人を超える登山者で賑わい、舘岩地域の貴重な観光資源になっていました。

写真麓の南会津町舘岩の湯ノ花地区。空の彼方に田代山の山頂が見えます。

県道350号県道350号

県道350号県道350号

南会津町舘岩支所から猿倉登山口まで約16km。県道350号は水引集落を過ぎると人家はなくなっていきます。山道では、落石等に注意して運転しなければなりません。

登山開始。

写真猿倉登山口。湯ノ岐川の源流部となっています。

県道350号を30〜40分ほど走って猿倉登山口に到着。登山開始です。
山頂まで約2.7km。標準コースタイムは2時間と比較的短いのが特徴です。歩きやすい階段状に整備された尾根筋を登っていきます。
取材日はブナやダケカンバが紅葉して秋の最後を美しく彩っていました。この記事が公開される頃には冬季通行止めになっています。2021年最後の登山のタイミングでした。

写真猿倉登山口。湯ノ岐川の源流部となっています。

整備された登山道。岩場などはなく比較的登りやすいといえます。

整備された登山道。
岩場などはなく比較的登りやすいといえます。

休憩しながら無理のない登山を。

休憩しながら無理のない登山を。

朽ちにくいナナカマドの実。ソルビン酸という保存料と同じ成分が含まれています。

朽ちにくいナナカマドの実。
ソルビン酸という保存料と同じ成分が含まれています。

写真山頂湿原の入口付近(猿倉口側)。前ぶれなく現れる湿原に驚きます。

登頂。突然現れる広大な湿原。

写真山頂湿原の入口付近(猿倉口側)。
前ぶれなく現れる湿原に驚きます。

山頂に着くと広大な湿原が目の前に現れました。標高1926m。取材日は曇りでしたが雲は高く、近くの山々が見渡せました。
なかでも、会津駒ヶ岳は壮観でした。会津駒ヶ岳の大きく横たわった山塊は一足先に雪山の様相を呈していました。
今回はシーズンオフでしたが、田代山のベストシーズンは初夏から夏にかけて。密集したワタスゲの群落は尾瀬国立公園の中でも見応えがあります。

写真写真左下がもっとも大きな池塘の弘法池。
右(西方面) に向かってゆるやかに傾斜が上がります。

写真

山頂から北西の方角に会津駒ヶ岳。
田代山からの直線距離は10km 程度。

写真

写真初夏の山頂。(写真提供・浅井理人)

写真ワタスゲの群落。(写真提供・浅井理人)

田代山の成り立ち。

写真露出した泥炭層。蓄えられた水は少しずつ流出し、
麓を流れる川の水源となります。

田代山の基部をなしているのは溶結凝灰岩です。約1千万年前から約100万年の間に田代山付近で膨大な火山活動が起こり、一帯の山や谷は火砕流と火山灰で埋まりました。その後、長い年月をかけて溶結凝灰岩の大地は侵食され、台地形状の田代山がつくられたとされています。
やがて平坦な山頂に薄い土壌ができて植物が生えるのですが、低温のため植物は枯れても分解が遅いため、少しずつ蓄積します。これが泥炭層です。泥炭はスポンジのように雨や雪の水を豊富に蓄えるようになり、山地湿原が誕生しました。

写真露出した泥炭層。蓄えられた水は少しずつ流出し、麓を流れる川の水源となります。

写真

田代山全景。
水分の多い泥炭層の山頂では高木が育たず、
草や苔などの湿原植物のほかは、
ハイマツなどの低木が広がります。
一方、水を蓄えない斜面の稜線はしっかりした土壌が
形成されクロベやダケカンバなどの高木が育っています。

田代山と人々の歴史

景観も地質学的にも魅力的な田代山。しかし明治の頃まで麓の舘岩の集落では魔物の棲む山として入山が禁止されていたそうです。 田代山を水源とする湯ノ岐川や西根川が昔から大雨などにより沿岸の集落に水害を引き起こしていたことが一因だったのかもしれません。

魔物退治?からの開山。

写真大山善八郎時澄の肖像画。

明治35年頃に湯ノ花地区の豪農だった当主大山善八郎時澄(おおやまぜんぱちろうときずみ)は、奈良の高野山まで田代山の魔物退治の祈祷嘆願に詣でます。弘法大師の信仰厚かった時澄の祈りは10年後に実を結んで高野山から2人の高僧が田代山へ派遣されました。
そして偶然にも明治から大正へ年号が変わる大正元年7月30日に、時澄は2人の高僧を伴って田代山へ登頂。大師堂を建立して弘法大師坐像を祀りました。

写真大山善八郎時澄の肖像画。

写真大山佳伸さんと妻の大山澄子さん。

写真大山佳伸さんと妻の大山澄子さん。

「高野山のお坊さんは登るほどに気分が清々しくなり、美しい花が咲き乱れていた湿原に魅了され、こんな美しい山に魔物なんか棲んでいないから多くの人が登るべきと時澄に諭したそうです。それから時澄は村人たちと山道を拓きました。これが子どもの頃から伝え聞く田代山開山の歴史です」と語ってくださったのは、湯ノ花地区で民宿ふじやを営む大山澄子さん。なんとご主人は時澄の子孫である大山佳伸さんです。

田代山の思い出。

写真真ん中の幼い少年が大山佳伸さん。当時小学一年生。

「この写真は大師堂の3回目の建て替え記念に撮影したものです。高野山の親王院から来た2人のお坊さんの真ん中に写るのが小学一年生の私です。昭和34年のことでした。びっくりしましたよ。こんな山の中に大師様の立派な坐像があるんですから」

そう話すのはご主人の大山佳伸さん。佳伸さんは大師堂の管理を受け継いで毎年欠かさず田代山へ登り、現在は避難小屋も兼ねた大師堂を守っています。

写真真ん中の幼い少年が大山佳伸さん。当時小学一年生。

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左: 避難小屋を兼ねている現在の弘法大師堂。

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右: 弘法大師坐像

「私の田代山の思い出は中学1年の夏休みのことでした。トラックの荷台に10人くらいの生徒が乗り田代山へご来光詣りの登山が行われたんです。当時は中腹に山小屋がありました。そこで仮眠して暗いうちから再び登る。山頂で見た日の出は今でもくっきり目に焼き付いています」と澄子さん。のちに大山家へ嫁いだ際は、開山者時澄の「澄」の字を名前に持っていたことで、田代山に深い縁を感じたそうです。

地域の宝。
美しい湿原を未来に残したい。

写真山頂の湿原に迫る崩落箇所。

一方、田代山とその周辺地域にはこれまで幾度となく大雨、台風による水害等が起こっています。被害が大きかったのが令和元年10月の台風19号でした。麓の湯ノ花地区、木賊地区は甚大な被害を受けます。さらにこの時、田代山の西側斜面は山頂の湿原にあと少しのところまで大きく崩落しました。
崩落した土砂は西根川に流出し、美しい木賊地区の渓谷は一変、自然の猛威を改めて感じました。

写真山頂の湿原に迫る崩落箇所。

県道350号チングルマ。ワタスゲとともに初夏の田代山の風物詩。
(写真提供・浅井理人)

県道350号チングルマ。
ワタスゲとともに初夏の田代山の風物詩。
(写真提供・浅井理人)

近年、豪雨などの災害の頻度が高くなり自然景観や生物多様性などへの影響が危惧されています。
「いつまでも地域の宝ものとして美しい景観が残って欲しい。 なんとか守っていきたいです」と佳伸さん。

来シーズンに田代山へ登山する際は、こうした自然課題も胸に留めつつ、希少な山地湿原をお楽しみください。

撮影協力:三井物産

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