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中世

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年12月1日更新

画像:阿津賀志山防塁の模型

鎌倉軍を迎撃するために築かれた阿津賀志山防塁
(模型・福島県立博物館蔵)

文治5年(1189)、奥州藤原氏攻略のために、鎌倉軍は3方から平泉を目指しました。源頼朝が率いる中央軍は、7月末に白河を越え8月には信達盆地に入りましたが、奥州藤原軍は、石那坂(福島市)、阿津賀志山(国見町)等で信夫(福島市)の佐藤氏や藤原国衡等がこれを迎撃し激戦が展開されました。この戦いは、事実上の天下分け目の合戦でしたが奥州藤原方の完敗に終わり、ほどなく藤原泰衡の本拠地の平泉も陥落しました。

戦後、源頼朝から、軍功のあった常陸念西入道の一族(後の伊達氏)に伊達郡、結城氏に白河郡、伊東氏に安積郡、相馬氏に行方郡、三浦氏(後の葦名氏)に会津郡が与えられ、関東武士団による本県域の支配が開始されました。このほか、平安時代以来の石川氏及び岩城氏等も引き続きその地を領有し、本県域の鎌倉時代の支配体制がほぼ定まりました。

鎌倉幕府が滅亡すると、南北朝の抗争が始まり、本県域でも南朝方、北朝方入り乱れて戦乱の事態となりました。最終的には南朝方が立てこもる宇津峰城(郡山市・須賀川市)が正平8年(1353)に陥落し、県域の南北朝の時代は終わりました。室町時代には、結城白川、伊達、葦名、岩城の各氏等が勢力を拡大していきました。

画像:桑折西山城跡

伊達氏の拠点となった桑折西山城跡

大永2年(1522)、伊達稙宗は室町幕府から陸奥国守護に任じられ、桑折西山城を本拠とし領国法である「塵芥集」を定めるなどして、領国支配を確実なものとし、戦国大名としての地位を確立していきました。

また、会津の葦名氏も盛舜の時代に全会津の支配権を確立し、天文7年(1538)には会津守護として遇され、伊達氏と並ぶ奥州の大大名になりました。さらに盛氏の時代は安積、岩瀬地方にも影響力を持ち葦名氏の最盛期を出現させました。

伊達氏は政宗(17代)の時代になると中通り南進を始めました。さらに天正17年(1589)、会津攻略を意図した伊達軍と葦名・佐竹連合軍が、磐梯山麓の摺上原で戦いましたが、伊達氏の勝利に終わりました。これら一連の戦いで、伊達政宗は相馬氏領を除く福島県全域と宮城県南部、山形県置賜地方、新潟県東蒲原郡の広大な地域を領有し、南奥州の戦国時代の覇者となりました。しかし、その前途には豊臣秀吉という巨大な力が立ちふさがっていました。

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