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しらかわ-福島県県南地方-[観光情報][カテゴリ別-史跡]2

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年9月1日更新

しらかわ

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観光情報[史跡]

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白河の関跡

白河小峰城

翠楽苑

共楽亭

硯石磨崖三十三観音

境の明神

白川城跡

感忠銘

丹羽長重廟

安珍堂

庄司戻し桜[霊桜碑]

和泉式部庵蹟と化粧の井

笊内古墳

建鉾山祭祀遺跡

勝花亭

剣桂

泉崎横穴

関和久遺跡

踏瀬観音山磨崖供養塔婆群

汗かき地蔵

滝八幡三十三観音磨崖仏群

五本松の松並木

鬼穴古墳群

棚倉城跡

赤館城跡

流の廃堂跡

新田義貞の墓

天狗党の墓

西行の歌碑

白坂末吉の墓

塙代官所跡

田中愿蔵刑場跡

水野家書院

渡瀬村救荒修祭記碑

 

滝八幡三十三観音磨崖仏群(たきはちまんさんじゅうさんかんのんまがいぶつぐん)  岩壁に刻まれた三十三観音像がひっそりと佇む

 滝八幡三十三観音磨崖仏群

隈戸川沿いにそびえる高さ10mほどの岩壁に、薬師如来・阿弥陀如来・観音菩薩をはじめとする計37体の仏像が刻まれています。それぞれが40~60cmほどの石仏で、ほぼ一列に並ぶ様は圧巻です。造立年代は江戸時代中頃であったと推定されています。この断崖の上には、前九年の役(1051年・平安時代)で勝利を収めた源義家が帰郷した折に築いたとされる社があります。義家が持っていた矢の棒で屋根を葺いたことから、この地は「矢葺」と呼ばれるようになり、それが転じて現在の町名「矢吹」になったといわれています。磨崖仏群の周辺には三十三観音史跡公園が整備され、義家ゆかりの滝八幡神社や馬尾の滝などを見てまわることもできます。滝八幡三十三観音磨崖仏群は、矢吹町の重要文化財に指定されています。

所在地  〒969-0284 西白河郡矢吹町滝八幡112-1
問合せ先 矢吹町商工推進課
Tel  0248-42-2119
Fax 0248-42-2587
料金 無料

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五本松の松並木(ごほんまつのまつなみき)

 五本松の松並木

 江戸時代の白河藩主であった名君松平定信公は、旅人を冷たい風や強い日差しからかばう目的で、領内の街道筋に2,300本の松を植樹しました。現在は、町によって明治18年(1885年)頃補植されたものが約800mにわたって並んでおり、冬支度が始まる10月頃には松くい虫防止の腹巻が巻かれます。この赤松並木には樹齢170~190年と推定される木が約250本残っており、当時の面影を今に留めています。おくのほそみち自然歩道という散策コースもあり、自然環境保全地域に指定されています。

所在地  〒969-0205 西白河郡矢吹町五本松
問合せ先 矢吹町商工推進課
Tel  0248-42-2119
Fax  0248-42-2587

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鬼穴古墳群(おにあなこふんぐん)

 鬼穴古墳群

古墳時代後期、この地方の豪族により建造されたと伝わる鬼穴古墳群は、横穴式積石石室という形式の円墳です。石室や仕切りは自然石を積みあげた形となっており、床には小さな玉状の石が敷き詰めてあります。発掘・測量調査によると全長は8.84mとされていますが、先端部が破損しているため本来はもっと長かったものと推定されています。福島県内で見つかっている横穴式石室の円墳としては大きく、比較的良い状態で発掘されました。後期古墳の代表的なものとして福島県の史跡に指定されています。

所在地  〒969-0251 西白河郡矢吹町神田東地内
問合せ先 矢吹町商工推進課
Tel  0248-42-2119
Fax  0248-42-2587

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 棚倉城跡(たなぐらじょうせき)  古城の名残をのこす桜の公園

 棚倉城跡

 元和8年(1622年・江戸時代)丹羽長重は常陸国古渡より棚倉に入封、赤舘城を住まいとしていました。しかし寛永2年(1625年)に幕府からの命令を受け、当時この地にあった都々古別神社(近津明神)を馬場に遷宮して、その跡地に棚倉城を築きました。約240年に渡り8家16代の城主が交代した棚倉城でしたが、慶応4年(1868年)戊辰戦争によって古町とともに戦火で焼失、落城しました。別名亀ヶ城とも呼ばれており、お濠に住む大亀が水面に浮かぶと決まって殿様が国替されたということに由来しているそうです。他にも様々な呼び名があり、城の壁が荒土のままだったことから新土城、近津明神の跡地に建てたため近津城とも言われていました。現在は公園となっており、季節にはお濠沿いに植えられた桜や土塁のツツジが訪れる人々を魅了しています。

所在地  〒963-6131 東白川郡棚倉町棚倉城跡
問合せ先  棚倉町観光協会
Tel  0247-33-7886
Fax  0247-33-3715
料金  見学自由、無料

棚倉城跡

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 赤館城跡(あかだてじょうあと)

 赤館城跡

久慈川がゆるやかに流れる町並みを見渡す高台に、赤館城跡があります。築城に関わる詳細は未だ判明していませんが、南北朝時代~室町時代は代々赤舘氏によって統治されていたようです。戦国時代から長年にわたって、この赤舘城を含む棚倉一帯は伊達氏・佐竹氏・白河結城氏の勢力争いの舞台となりました。しかし天正18年(1590年)、豊臣秀吉の「奥州仕置」により白河結城氏は消滅し、その後赤舘を支配した佐竹氏も、関が原の合戦で中立を貫いたため徳川幕府の命により秋田へ転封、棚倉は幕府の直轄地となりました。元和8年(1622年・江戸時代)には二代目藩主として丹羽長重が入封し城主となりましたが、その後棚倉城を構えたため赤舘城は廃城となりました。現在は赤舘公園として整備され、春には300本もの桜が一斉に開花します。

所在地  〒963-6100 東白川郡棚倉町風呂ヶ沢41-8
問合せ先  棚倉町観光協会
Tel  0247-33-7886
Fax  0247-33-3715
料金  見学自由、無料

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流の廃堂跡(ながれのはいどうあと)

東西南北を壮大な山々に囲まれ、久慈川のせせらぎが堪能できる立地にある流の廃堂跡は、標高約80mの東山(流山)山頂に建てられた山岳寺院でした。修練道場的な役割も果たしていたとみられ、その規模は奈良の法隆寺や唐招提寺と同等であったと考えられています。建立は平安時代と推定され、町教育委員会の調査によって金堂跡の礎石や仏像を安置する須彌壇、参道の跡なども見つかっています。さらには、当時大変貴重だったという金・銀を用いた「金銀象嵌鉄剣(きんぎんぞうがんてっけん)」が発見され、県重要文化財に指定されました。しかし具体的な使用目的などはいまだ判明しておらず、今後も調査がなされるようです。

所在地  〒963-5663 東白川郡棚倉町流字東山
問合せ先  棚倉町教育委員会 生涯学習課
Tel  0247-33-0111
料金  見学自由、無料

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新田義貞の墓(にったよしさだのはか)

 新田義貞の墓

南北朝時代の名将・新田義貞は、公家と武家の争いにおいて才覚を現し歴史にその名を残しています。義貞の墓は正確な所在が未だ判明しておらず、縁のある福井・群馬・京都など複数の地に墓や供養塔が存在します。ここ棚倉もそのうちの一つで、義貞の妻・勾当内侍(こうとうのないし)が夫の死後、難を逃れるためやってきたと伝えられています。勾当内侍のその後についても諸説ありますが、この地域では、尼となり蔵光寺に義貞の墓を建てその首を葬ったという説が語り継がれています。

所在地  〒963-6141 東白川郡棚倉町富岡字寺ノ前531
問合せ先  棚倉町観光協会
Tel  0247-33-7886
Fax 0247-33-3715
料金  無料

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天狗党の墓(てんぐとうのはか)

 天狗党の墓

幕末動乱期の元治元年(1864年・江戸時代)3月、水戸藩内の尊皇攘夷派藤田小四郎らを中心として筑波山で挙兵したのが天狗党です。しかし中隊の隊長であった田中愿蔵は、倒幕に踏み切れない小四郎らと間もなく対立、天狗党を離れて独自の隊をつくり各地を転戦し、最後は八溝山にこもります。そして同年10月食糧も尽き果てた田中隊は解散し、その一部が八溝山北口山道から現在の棚倉町大字高野地内に下山してきました。そこで待ち構えていた棚倉藩兵たちによって捕えられ、同地の段河内原野で二十数名が処刑されました。当時の棚倉藩主松平周防守康英が処刑地に「三界万霊塔」の供養碑を建立しました。現在この地は天狗平と称され、その名残をとどめています。

所在地  〒963-6145 東白川郡棚倉町大梅
問合せ先  棚倉町観光協会
Tel  0247-33-7886
Fax  0247-33-3715
料金  無料

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 西行の歌碑(さいぎょうのかひ)

西行の歌碑

西行は、元栄元年(1118年・平安時代)現在の和歌山県那賀郡に武家の子として生まれました。18歳になると御所や皇居での鳥羽天皇警護武士役に就きますが、23歳の若さで仏門に入ります。出家後は歌枕の地として有名な吉野山に庵を結び、陸奥行脚から戻った後は約30年にわたり高野山に居を構えていたといわれています。文治5年(1189年・鎌倉時代)現在の大阪府、弘川寺に移り住んだ西行は、翌年2月16日73歳で亡くなりました。伊勢を始めとする日本各地を行脚遍歴し、数々の歌を残しました。最高傑作といわれる「述懐歌」は現在もなお読み継がれています。矢祭山公園内に建てられた歌碑には、「心ある人に 見せばや みちのくの やまつりやまの あきの けしきよ」と刻まれており、西行がここからの眺望に感動した情景が伝わってきます。

所在地  〒963-5322 東白川郡矢祭町大字内川字矢祭
問合せ先  矢祭町教育委員会
Tel 0247-46-4580
料金 無料

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 白坂末吉の墓(しらさかすえきちのはか)

白坂末吉の墓

明治25年(1892年)2月の第2回総選挙で行われた選挙大干渉は、全国いたるところで吏党側の暴漢が横行し、流血の惨事を生み出していました。この弾圧における犠牲者の数は全国で死者25名、負傷者400名にも及んだといわれています。福島県は、自由民権運動の一つ「福島事件」の中心人物であった河野広中など自由党(野党)の強力な地盤であり、政府はこの一角を切り崩すため、内務省警保局長大浦兼武をわざわざ白河に出張させ、河野の選挙区である矢祭地方を含む第三区を集中的に弾圧しました。矢祭地方は民衆運動の伝統を持っており、住民の政治意識が高かったため、選挙に対する関心も極めて強いものがありました。その中で河野派の運動員であった東白川郡石井村(矢祭町)の白坂末吉という18歳にも満たない青年が駐在所の巡査の刃によって殺害され、弾圧の犠牲となったのです。しかし、政府のこの狂気じみた弾圧にもかかわらず河野氏らは再び当選し、吏党は惨敗しました。墓碑名は河野広中の筆によるもので「坂」が「阪」となっています。当時の鑑定医師の鑑定書や創傷図とともに白坂末吉の死はその痛ましい犠牲を現世に伝えています。

所在地  〒963-5100 東白川郡矢祭町大字下石井字沼畑
問合せ先  矢祭町教育委員会
Tel 0247-46-4580
料金  無料

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 塙代官所跡(はなわだいかんしょあと)

 塙代官所跡

塙代官所は、享保14年(1729年・江戸時代)から139年間にわたり、武家政権における役職の一つであった代官の大名領(藩)の藩庁として機能していました。敷地は約1650坪もあったそうですが、現在はその跡地に子育て地蔵尊を祀ったお堂が建っています。江戸時代この地域は幕府の直轄地でしたが、農村は荒廃し人々は荒んだ生活を送っていました。これを見た第23代塙代官・寺西封元(てらにしたかもと)は荒廃地を復旧させるための策を考え、窮民救済事業として「向ヶ岡公園」の造成や、「寺西八ヶ条」・「子孫繁昌手引草」の編纂による民衆の教化を行いました。22年に及ぶ在任の間、民意を尊重し復旧に尽力した寺西氏の偉業は、現在に語り継がれています。向ヶ岡公園内に植えられたしだれ桜は県の天然記念物として指定されています。

所在地  〒963-5405 東白川郡塙町大字塙地区
問合せ先  塙町観光協会
Tel  0247-43-3400
Fax  0247-43-3535
料金  無料

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田中愿蔵刑場跡(たなかげんぞうけいじょうあと)

 田中愿蔵刑場跡

田中愿蔵は、幕末の元治元年(1864年・江戸時代)3月、尊皇攘夷派藤田小四郎が中心となり決起した「天狗党」に幹部として参加しました。しかし愿蔵率いる田中隊は栃木町や真鍋宿で町を焼き払うなどしたため、天狗党は「暴徒」と見なされるようになります。これらの行動による他隊の田中隊に対する拒絶や、倒幕に踏み切れない小四郎らとの思想の対立などから、愿蔵は独自の隊を作って各地を転戦します。そして最後は八溝山にこもりますが、同年10月食糧も尽き果て、隊は解散しました。その後下山したところを塙代官所の役人に名畑村で捕らえられ、21歳という若さで久慈川の河川敷で斬首刑に処せられました。遺体は安楽寺に埋葬されています。「田中愿蔵刑場跡」の碑は昭和4年(1929年)郷土史家で塙町長を務めた金沢春友氏により建立され、石碑の裏には『霜に染む樹々の梢の錦より いと珍しき谷の松が枝』という愿蔵の辞世の句が刻まれています。

所在地  〒963-5405 東白川郡塙町大字塙字桜木町388-1
問合せ先  塙町観光協会
Tel  0247-43-3400
Fax  0247-43-3535
料金  無料

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水野家書院(みずのけしょいん)

江戸時代後期、幕府の巡見使が各藩を視察する際に道中で休息をとったのが水野家といわれています。敷地内には当時道しるべの役割をしていた追分石があり、こちらも村指定史跡となっています。また、書院前の庭園には西山のイチイの木という県指定天然記念物があり、書院の両脇に雄木・雌木として見事に生い茂っています。こちらは天正10年(1582年・安土桃山時代)、名主であった水野家の祖先によって植えられました。茅葺き書院造りの水野家書院は、鮫川村の文化財に指定されています。

所在地  〒963-8408 東白川郡鮫川村西山字宝木54
問合せ先  鮫川村農林商工課
Tel  0247-49-3113
Fax  0247-49-3363
料金 無料

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渡瀬村救荒修祭記碑(わたらせむらきゅうこうしゅうさいきひ)

 渡瀬村救荒修祭記碑

天明3年(1783年・江戸時代)高冷地である渡瀬村では、江戸四大飢饉に数えられる「天明の大飢饉」により、多数の餓死者が出ました。村外に出て行く人も多く、150余りあった戸数も30戸にまで減少してしまい、田畑は荒れ果ててしまいました。しかし大きな被害を受けながらも、残った村民は団結し荒廃した農地を復興させ、その結果、寛政元年(1789年)は大豊作となりました。寛政3年(1791年)には改めて餓死者を供養し、飢饉で起きた惨事が今後の戒めとなるようにと、代々の渡瀬村名主・赤坂氏によって石碑が建てられました。石碑には、当時水戸藩彰考館総裁だった立原翠軒による「天災は予期しないときに来るため、人々は平常時からこれに備えなければならない」といった意味の文が刻まれています。昭和11年(1936年)、赤坂家屋敷内にあったこの石碑は、赤坂家21代当主・赤坂儀作氏によって渡瀬区に寄贈されました。

所在地  〒963-8405 東白川郡鮫川村渡瀬
問合せ先  鮫川村教育委員会
Tel  0247-49-3151
Fax 0247-49-3152
料金 無料

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